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酒飲み親父の自分史 「昔ロックしてた俺へ」

酒飲み親父が昔の手帳を見て半生を振り返るブログ

飛行機で大分へ(玖珠町ライブ編) ~1991年11月その3~

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新型コロナのため家にいる時間が多くなった。
やることも無いので部屋の整理をしていると・・・

昔の手帳が出てきた。
1985年から2010年まで。

あの頃はスマホどころか、ガラケーも無い時代で、予定は手書きで手帳に書いていたのだ。
2010年以降はきっと携帯に予定を打ち込んだためにないのであろう。

さて、ちょっとだけ手帳のなかを覗いてみるか。

1991年、私は「伊太地山伝兵衛商会」と云うバンドに参加していた。

 

1991年
11月 9日 8:30 全日空 羽田発大分行き 別府1本
11月10日 大分昼2本 湯布院1本
大分合同新聞主催の玖珠町のイベントに出演した時だ。
ん?あああ思い出した。時を戻そう。

今回の大分ツアーのメインイベントが行われる玖珠町に向けて、湯布院を出発した。

玖珠町は、湯布院から国道210号を日田方面に進む途中の田舎町である。
童話作家の久留島武彦氏の出身地で、童話の里と云われている。

最寄り駅の豊後森の駅近くには、鉄道ファンには堪らない「機関庫転車台」の跡が今も残っている。

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伝兵衛号は国道210号線を西に進み、玖珠町の交差点でイベント会場の協心橋方面へと右折した。
すると、伝兵衛さんは何故か橋の手前の小径を右に折れ、車を止めた。
そして、対岸の見える川岸まで下りて行ったのだ。
もちろん俺達メンバーも訳が分からずに付いて行った。
伝兵衛さんは、昨夜の湯布院のライブが中止になった事で、この会場の様子が気になっていたのだろう。
ここ玖珠町も半分は自衛隊で食っている町で、やはり自衛隊反対派がいるのかもしれない。
何せ、飛行機で大分に来たのは良かったが、一本もライブを行っていなかった。

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対岸の様子が良く見える。
イベント会場は、JR久大本線豊後森駅近くの玖珠川に架かる協心橋の河原だった。
後援は大分合同新聞と自衛隊だったと思う。
河原にはステージが造られ、紅白の幕が祭りらしさを出していた。
機動隊が警備に当たっていた様だが、会場付近は平穏で何事もなさそうだった。
キャンセルが続いた今回のツアーで、やっと演奏が出来そうだ。

車に戻り協心橋を渡った。
会場の河原には寄らずに直進し、今夜の宿「ホテル清流荘」にチェックインした。

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まだ午前中だったと思う。
ここは、イベント関係者の宿舎になっていた。

荷物を車から降ろして楽器だけを持って、イベント会場の河原のステージに行った。
簡単なリハーサルがあったのかな。
その後、宿に戻り本番までの間、温泉に入った。
大きな四角い、銭湯の様な浴槽だった。
このメンバーで温泉に入るのは何度目だろうか。
さすがに、伝兵衛さんも風呂の時はサングラスを外していた。
つりあがった細い目が、伝兵衛商会のイラストのイタチにそっくりなのだ。

本番は明るい時間だった。
地元のバンドも出演し、伝兵衛商会はゲスト扱いだった。
今日はドラムフルセットだ。
野外だったので、スティックで叩きたかったが、ブラシを使った。
もっと柔軟にやれば良かったが、ブラシに拘っていたのである。
ライブは明るい内に終わった。

ライブが終わると、近くの農協の裏庭で打ち上げバーベキューがあった。
今日の泊まりの清流荘のすぐ脇だった。
紙皿を持って食べ放題、缶ビール飲み放題だったのを良く覚えている。
東京から来たバンドマンは、すっかりスター気取りだった。

宿に帰り、皆でもう一度温泉に入ったのも覚えているから、そんなに量は飲んだ覚えは無いのだが。
部屋に帰ってから、部屋飲みをしたのだろう。
当時の俺は、いつも「いいちこ」の五合瓶をカバンに持っていたから。

 

翌日寝坊して、旅館のおばさんに、
「皆行っちまったよ。残っているのはあんた達だけだ。」
とムチャクチャ怒られた。
とっくにチェックアウトの時間は過ぎていた。

また飲み過ぎた様だ。

大急ぎで荷物をまとめて宿を出た。


どうも、俺とベース吉見さんの2人は、飲み出すと止まらない。
後、2人がクビになる理由の一つがこれなのだ。


ーつづくー

 

飛行機で大分へ(湯布院編) ~1991年11月その2~

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湯布院駅

新型コロナのため家にいる時間が多くなった。
やることも無いので部屋の整理をしていると・・・

昔の手帳が出てきた。
1985年から2010年まで。

あの頃はスマホどころか、ガラケーも無い時代で、予定は手書きで手帳に書いていたのだ。
2010年以降はきっと携帯に予定を打ち込んだためにないのであろう。

さて、ちょっとだけ手帳のなかを覗いてみるか。

1991年、私は「伊太地山伝兵衛商会」と云うバンドに参加していた。

 

1991年
11月 9日 8:30 全日空 羽田発大分行き 別府1本
11月10日 大分昼2本 湯布院1本
大分合同新聞主催の玖珠町のイベントに出演した時だ。
ん?あああ思い出した。時を戻そう。

 

大分合同新聞主催のイベントに呼ばれて、大分へ行く事になった。

大分空港に到着し、市内へのバスに乗った。
大分空港は、国東半島の南端にあり、空港から別府までは、約1時間かかる。

空港を出ると豊後水道を左に見ながら走るが、すぐに山道に入る。
暫くすると国道10号に入り、再び左手に海が見えてくる。
段々と町らしい風景となり、大分麦焼酎「吉四六」の看板が見えれば、別府のフェリーターミナルである。
ここでバスを降りて、迎えを待った。

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別府のフェリーターミナルは、神戸からの大型フェリー「さんふらわあ」が航行している。
一度は乗ってみたかったが、伝兵衛商会は車で走るので乗ったことは無かった。
ターミナルビルの中にはレストランや土産物屋があり、大きなドライブインの様ものだった。
俺達はターミナル内をブラブラして迎えを待った。


待つこと十数分、伝兵衛さんの友人の大分合同新聞の人が車でやってきた。
挨拶を交わしてから、車に乗った。
たぶんレンタカーだつたのだろう。
今回のライブは、この車で大分県内をツアーする。
伝兵衛商会の機材車よりはまともな事は確かだ。
伝兵衛号は、エンジンを止めるとラジエターから水が漏れる。
不思議とエンジンがかかると水漏れが止まる。
そのために、ペットボトルに水道水を入れて積んでいた。
出発前に、ラジエターに水を入れるためである。
このオンボロ車で何度も九州まで往復した。


伝兵衛さんの友人とは別れ、国道10号を別府中心地に向かった。
暫くすると、別府タワーが見えてくる。
小さくて可愛らしいタワーだ。
それを越えると、右手に「トキハ」がある北浜の交差点だ。

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「トキハ」とは、大分が誇る百貨店である。
俺の記憶では、この北浜のロイヤルホストでコーヒー休憩をしたと思う。

ここでなにやら電話をして、どうやら湯布院に行く事に決まった。
手帳には「別府1本」と書いてあったがキャンセルになった様だ。
携帯電話の無い時代、伝兵衛さんは公衆電話を掛け捲っていた姿を思い出す。
ブッキングをやりながらライブを続けるので、電話が欠かせないのである。

別府から国道210号を登り湯布院へ向かった。


湯布院に着いても、ライブ会場に行く訳でもなく待機が続いた。
そしてそのまま夕暮れを迎えた。
湯布院でのライブもキャンセルになった様だった。

その夜、プロモーターさんに連れられて、湯布院駅前の居酒屋に飲みに行った。
カウンターに座り、俺の隣に伝兵衛さん、その隣にプロモーターさんが座った。
俺をそっちのけで、二人でひそひそと話をしていた。
所々聴こえてくるのは、
「自衛隊」
「反対」
「賛成」・・・

 


居酒屋を出て、帰りながら伝兵衛さんに、事の顛末を聞いた。

今回の大分ツアーは、明日の玖珠町での自衛隊関係の音楽イベントがメインだった。
この日は、その前夜祭ライブが湯布院で開催されるので、湯布院に移動したのだ。
しかし、ライブは中止になっていた。
前夜祭ライブが中止の理由は、自衛隊反対派の運動の為らしい。

湯布院は、観光の他は自衛隊で食っている町で、自衛隊賛成派と反対派で対立しているらしい。
ライブ直前まで揉めていたと言う。

明日の本番も、騒ぎがあるかもしれなかった。


ーつづくー

 

飛行機で大分へ(移動編) ~1991年11月その1~

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大分空港

新型コロナのため家にいる時間が多くなった。
やることも無いので部屋の整理をしていると・・・

昔の手帳が出てきた。
1985年から2010年まで。

あの頃はスマホどころか、ガラケーも無い時代で、予定は手書きで手帳に書いていたのだ。
2010年以降はきっと携帯に予定を打ち込んだためにないのであろう。

さて、ちょっとだけ手帳のなかを覗いてみるか。

1991年、私は「伊太地山伝兵衛商会」と云うバンドに参加していた。

 

1991年
11月 9日 8:30 全日空 羽田発大分行き 別府1本
11月10日 大分昼2本 湯布院1本
大分合同新聞主催の玖珠町のイベントに出演した時だ。
ん?あああ思い出した。時を戻そう。

 

大分合同新聞主催のイベントに呼ばれて、大分へ行く事になった。
往復の飛行機代は、スポンサーの大分合同新聞が出してくれるらしい。
九州には機材車を走らせてしか行った事がなかったので、とても嬉しかった。
24時間かかる距離が、わずか1時間で着いてしまうのだから。


当日朝8:00にメンバーと羽田空港で待ち合わせをした。
飛行機は、8:30の大分空港行きである。
飛行機なのに出発まで30分前の集合だった。
少し待ち合わせ時間が遅いな、と思っていた。

俺は、スネアドラムと着替えの入ったバッグを持って早めに着いていた。
集合時間前に伝兵衛さん、8:00丁度に吉見さん。
メンバーが楽器を抱えて集まる。
しかし、8:00を過ぎてもギターの恒ちゃんだけは来なかった。

遅い。
刻々と出発の時間が迫って来る。
ギリギリまで待っていると、遠くから恒ちゃんがギターを抱えて走って来るのが見えた。
完全に鹿児島時間だ。
鹿児島時間とは、時間を守れずに必ず遅れてやって来る事である。
こういう人には、時間を30分早く伝えるのが良い方法なのだが・・・。
メンバーが揃うと猛ダッシュでANAのカウンターへ走る。
慌ててチェックインし、楽器を預けた。


さて、飛行機に乗る時に楽器を預けると、ハードケースの取手にFRAGILE(壊れ物取り扱い注意)のタグを付けてくれる。
俺はこれに憧れていた。
沢山タグが付いていると、ツアー慣れしたイケてるミュージシャンに見えるからだ。
俺はスネアドラムを、他のメンバーは、ギターとベースを預けた。

早速、ANAのお姉さんがタグを付けてくれる。
楽器達はベルトコンベアで奥へと消えていった。


飛行機に乗り込むと、俺と伝兵衛さんが並びで、吉見さんと恒ちゃんがその後ろの席に座った。
移動に車以外使った事が無かったので、なんか変な感じだ。
偶然にも、いつもの車の座席位置と同じであった。

暫くすると、朝の便だったので、軽食としてサンドウイッチが出た。
もちろん、熱いおしぼりのサービス付きである。

これで顔を拭くのは、なんとも言えない爽快感があったものだ。
是非とも復活させて欲しいサービスである。

そうこうしているうちに、大分空港に到着した。
羽田から大分までは、1時間ちょっとのフライトであった。


大分空港に着くと、ベルトコンベアから楽器が出て来るのを待った。
すると、FRAGILEのタグが付いたスネアケースが出て来た。
おまけに、赤い「取扱注意」のシールも貼ってあった。

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帰りの分と合わせると2つのタグがゲット出来る計算だ。

楽器を抱えて到着ロビーに出ると、別府市内に向かうバスを待った。
土産物を見ていると、店員のお姉さんがワゴンを片付け始めた。
1日数便の大分空港では、お客さんが居なくなると次の便まで売店は店じまいする事を初めて知った。


今回のツアーの内容は詳しく知らなかった。
まあ、これは毎回の事ではあるが。
大雑把に聞いていたのは、別府・大分・湯布院でライブをやるらしいと言う事位である。

我々は、とりあえずバスで別府に向かった。


ーつづくー

 

秋のツアー(和歌山オールドタイム) ~1991年10月その8~

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新型コロナのため家にいる時間が多くなった。
やることも無いので部屋の整理をしていると・・・

昔の手帳が出てきた。
1985年から2010年まで。

あの頃はスマホどころか、ガラケーも無い時代で、予定は手書きで手帳に書いていたのだ。
2010年以降はきっと携帯に予定を打ち込んだためにないのであろう。

さて、ちょっとだけ手帳のなかを覗いてみるか。

1991年、私は「伊太地山伝兵衛商会」と云うバンドに参加していた。

 

1991年
10月23日 横浜BUDDY
10月24日 茅ヶ崎R'Sステージ
10月25日 難波ロケッツ
10月26日 大阪ニコチャン堂
10月27日 京都アザーサイド
10月28日 京都ろくでなし
10月30日 大阪ミノヤホール
11月1日  和歌山オールドタイム
秋の関西ツアーだ。
ん?あああ思い出した。時を戻そう。

秋のツアーの最後は、和歌山のオールドタイムだった。
和歌山は関西でも田舎のイメージがあり、高速が無いので増々遠く感じてしまう。
しかし、もし高速があっても伝兵衛商会なら高速代を節約して一般道を走ったに違いない。
伝兵衛さんはこう言うだろう。
「急いでも仕方ない。走っていれば、そのうち着くさ。」と
あの人は、長い時間車で走る事を全く苦にしていなかった。
そして、オンボロのキャラバンもそれに応えていた。

オールドタイム出演は春以来だ。
あの時は、地元のファンの方の家にお世話になったが、大阪のブルースハープ奏者の尾崎さんがツアーに加わってからは、和歌山に泊まる事はなくなった。

sakenomioyaji.com

 

初めてこの店に出演した時は、地方のキャバレーみたいな店だな、と思っていた。
箱バンがオールディーズを演奏している雰囲気の店だったのだ。
キンキラのステージの上には、ミラーボールが回っていた様な記憶がある。
伝兵衛商会のようなジャズブルースバンドが出るのは場違いな気がして、オールドタイムの第一印象は決して良くなかったのである。

立地場所も飲み屋街のはずれで、出番まで時間を潰す場所も無かった。
店の中で、じっと出番を待っていたと思う。

お客さんも多勢入ったためしも無く、この店は長くは続かないだろう、などと勝手に思い込んでいた。

しかし、俺の思い込みは大いにハズレてしまった。
近畿でも地方都市感のある和歌山で、長年ライブハウスをやって来た事は凄い事だ。


1987年にオープンしたこの店は、35年経った今も移転して違う場所で営業を続けている。
一見頼りなさげに見えたマスターは、肝の座った漢だったんだな。
伝兵衛さんと何やら熱く語り合ってた姿を思い出す。


この日の細かいライブの事は覚えていない。
ライブに行っても、この頃から皆で観光とかをしなくなり、ライブが終わると大きな打ち上げをせずにすぐに帰る様になった。
少し前ならば、白浜まで走って温泉に入ろう、なんて事になっていたのに・・・

楽しかったライブツアーが、段々と仕事化してきたなと感じ始めていた。

 

 

さて話は変わるが、和歌山と言う事で。
お勧めの梅干しを紹介しよう。
毎年、知人のお歳暮に送っているのが、この「宝梅」だ。

まじ、本当に美味い。
何回も同じものを贈っても喜ばれているようだ。
贈り物に困ったらこれをお勧めするよ。



ーつづくー

 

秋のツアー(大阪の水) ~1991年10月その7~

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新型コロナのため家にいる時間が多くなった。
やることも無いので部屋の整理をしていると・・・

昔の手帳が出てきた。
1985年から2010年まで。

あの頃はスマホどころか、ガラケーも無い時代で、予定は手書きで手帳に書いていたのだ。
2010年以降はきっと携帯に予定を打ち込んだためにないのであろう。

さて、ちょっとだけ手帳のなかを覗いてみるか。

1991年、私は「伊太地山伝兵衛商会」と云うバンドに参加していた。

 

1991年
10月23日 横浜BUDDY
10月24日 茅ヶ崎R'Sステージ
10月25日 難波ロケッツ
10月26日 大阪ニコチャン堂
10月27日 京都アザーサイド
10月28日 京都ろくでなし
10月30日 大阪ミノヤホール
11月1日  和歌山オールドタイム
秋の関西ツアーだ。
ん?あああ思い出した。時を戻そう。

京都でのライブが終わり、大阪の千里に戻った。
宿舎にしていたのはブルースハープの尾崎さんの家である。
尾崎さんの家は、千里ニュータウンの団地で、千里中央駅からは歩いて10分くらいの所だった。
伝兵衛さんは、機材車でメンバーをここまで送り、自分だけは何処かへ消えて行った。
そして、ライブの日の昼に機材車で現れ、メンバーを拾って行くのである。


昼過ぎに起きると、ベースの吉見さんと散歩がてら千里中央駅近くのスーパーへ買い出しに出かけた。
寝起きの悪い恒ちゃんと尾崎さんは留守番だったと思う。
俺達は何回か泊まるうちに、尾崎さんの家の周辺にも詳しくなっていた。
今日の昼のメニューは冷たい日本蕎麦に決定。
二日酔いでも食べやすいし、何と言っても茹でるだけで簡単だ。

煙草を吸いながら団地の中の道を駅の方へダラダラと歩いて行った。
まだ歩き煙草が許されていた時代だった。
スーパーに着くと、乾麺の蕎麦とそばつゆ、刻み海苔などを買って帰路へ。
代金は経費の入った茶封筒から出した。
俺は伝兵衛商会に加入してから、すぐに経理係を任されていた。
ツアーの経費は全て茶封筒に入れて、高速道路を走る時なども、常に助手席に座り高速代を払っていたのだ。

買い物を終え尾崎さんの家に帰り着くと、早速鍋に水を張った。
この時「少し水道水が臭いな」と思った。
しかし、そのまま鍋に火を点けた。
沸騰してから乾麺を投入。
数分茹でて、水で絞めれば出来上がりだ。

蕎麦をどんぶりに山盛りにして、テーブルに出した。

皆初めは食べていたのだが、どうも売れ行きが悪い。
俺も一口食べてみた。
すぐに理由が分かった。
蕎麦がカビ臭いのだ。
その理由は大阪の水道水のせいだった。
当時の大阪の水は不味くて有名で、そのままで飲めたものではなかったのだ。
この水に慣れている尾崎さんは平気で食べている。
なんとか残りを食い切ったが、蕎麦の評判は最悪だった。


翌日の昼、伝兵衛さんが機材車で迎えに来た。
ライブに出発する前に近くの喫茶店でコーヒーを飲んだのだが、このコーヒーは美味かった。
マスターに聞くと、水道水は使っていないとの事。
そして、大阪の人は沸騰した水を冷ましてから使うらしい。
伝兵衛さんには、「そんなことは常識だ。ガッハッハ」と笑い飛ばされた。
茹でた蕎麦を水道水で絞めた事、濃縮のそばつゆを水道水で割った事が、さらに臭くなってしまった原因だった様だ。


ミノヤホールのライブは全く記憶が無い。
行った事の無い小屋に、機材車で店の前まで連行されてドラムを叩く。
そんな感じなのだ。

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大阪の中津にあった「ミノヤホール」は、 2018年3月31日(土)に閉店し、現在は「ステップホール」と名を変えて営業しているらしい。


ーつづくー

 

秋のツアー(木屋町ろくでなし) ~1991年10月その6~

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新型コロナのため家にいる時間が多くなった。
やることも無いので部屋の整理をしていると・・・

昔の手帳が出てきた。
1985年から2010年まで。

あの頃はスマホどころか、ガラケーも無い時代で、予定は手書きで手帳に書いていたのだ。
2010年以降はきっと携帯に予定を打ち込んだためにないのであろう。

さて、ちょっとだけ手帳のなかを覗いてみるか。

1991年、私は「伊太地山伝兵衛商会」と云うバンドに参加していた。

 

1991年
10月23日 横浜BUDDY
10月24日 茅ヶ崎R'Sステージ
10月25日 難波ロケッツ
10月26日 大阪ニコチャン堂
10月27日 京都アザーサイド
10月28日 京都ろくでなし
10月30日 大阪ミノヤホール
11月1日  和歌山オールドタイム
秋の関西ツアーだ。
ん?あああ思い出した。時を戻そう。

京都木屋町通りの南端。
高瀬川の川岸の2階に、小さなジャズバーがある。
その店の名は、「ろくでなし」。
ロックではない、と云う意味で名付けられたらしい。

この店の事は、伝兵衛さんや吉見さんからよく聞いていた。
吉見さんは、狭くて弾く場所が無かったので、カウンターの中でベースを弾いたと云う話は、耳タコだった。


この日明るいうちに、「ろくでなし」に着いた。
狭い階段を登って2階に上がると、店は思った以上に小さい。
そして、そこには名物マスターが待っていた。
「ヨッ、伝兵衛久しぶり。」
と、声をかけてきた。
メガネをかけた小さなおっちゃんである。
我々は挨拶をしてから、早速楽器を搬入した。
本当に狭かったので、俺はスネアドラムとハイハットだけを運び入れた。

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ドラムは店の一番奥へ。
吉見さんは、やはりカウンターの中。
恒ちゃんと伝兵衛さんだけが、椅子に座ってリハーサルを始めた。
なんとか演奏は出来そうだ。


リハーサルを終えると、マスターはコーヒーを淹れてくれた。
俺たちは、カウンターの高椅子に座りコーヒーを啜った。
やけに美味かった思いがある。
伝兵衛さんは以前にも出演していて、マスターとは顔なじみである。
寒くなったら、名物のおでんを食いたい、なんて話をしていた。

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この日は珍しい事に、店の外で時間潰しをしなかった。
余程マスターの話が面白かったからであろう。
店で話し込んでいるうちに本番の時間になった。


小さな店でも、お客さんは入ってくれた。
伝兵衛さんと恒ちゃんは、お客さんと膝を突き合わせる程の近さで演奏している。
俺は、窮屈な店の奥の壁際。
吉見さんのカウンターの中が1番広そうだった。

アンコールは「日の出ブルース」。
伝兵衛さんは、この曲の歌詞を
♪「ここは木屋町」
と変えて歌い、大いに盛り上がりを見せた。
そう言えば、このご当地替え歌は、伝兵衛さんの得意技だったなぁ。


ライブが終わってからも、伝兵衛さんはマスターと話し込んでなかなか帰らなかったと思う。

マスターは、帰りには店の外まで見送りに出てくれた。
我々は再開を誓って「ろくでなし」を去った。


ーつづくー

 

秋のツアー(皆で桜湯へ)~1991年10月その5~

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新型コロナのため家にいる時間が多くなった。
やることも無いので部屋の整理をしていると・・・

昔の手帳が出てきた。
1985年から2010年まで。

あの頃はスマホどころか、ガラケーも無い時代で、予定は手書きで手帳に書いていたのだ。
2010年以降はきっと携帯に予定を打ち込んだためにないのであろう。

さて、ちょっとだけ手帳のなかを覗いてみるか。

1991年、私は「伊太地山伝兵衛商会」と云うバンドに参加していた。

 

1991年
10月23日 横浜BUDDY
10月24日 茅ヶ崎R'Sステージ
10月25日 難波ロケッツ
10月26日 大阪ニコチャン堂
10月27日 京都アザーサイド
10月28日 京都ろくでなし
10月30日 大阪ミノヤホール
11月1日  和歌山オールドタイム
秋の関西ツアーだ。
ん?あああ思い出した。時を戻そう。

10月27日、「アザーサイド」に再び出演した。
ここは、京都御所の近くの地下のライブ喫茶だった。
座敷には、漫画本が沢山置いてあった記憶がある。

このライブハウスは住宅街にあり、周りには何もない。
前回出演した時に、1人で近くにある銭湯に行って、本番前までの時間を潰した。
昭和の香りが漂う、懐かしい銭湯だった。

sakenomioyaji.com

この銭湯の話をメンバーにしたところ、一緒に行きたいと言いだした。
九州出身のメンバー達は、温泉が大好きだった。
ここは天然温泉ではないが、大きな風呂は気持ちが良い。


リハーサルが終わってから、俺を先頭に、皆で銭湯にくり出した。
夏に行った記憶を思い出しながら、ダラダラと歩く事、約10分。
桜湯に到着した。

 

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伝兵衛さんはその外観を見て「おおっ懐かしい。雰囲気がある。」
と、期待を寄せる。
レトロ好きには堪らないのだ。
別府の公衆温泉で育った伝兵衛さんは、古い温泉が大好きだった。

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中に入っても、その期待は裏切られなかった様だ。
柳行李の籠に脱いだ服を入れ、いざ風呂へ。
午後一の銭湯は客が少なく、ほぼ貸し切りである。
皆で風呂に入るのは何度目であろうか。
少し熱めの湯に体を浸す。
炊き立ての一番湯は少し肌に刺さった。

湯舟から出ると、並んで体を洗った。
本当に伝兵衛商会のメンバーは仲が良かった。

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風呂から上がると、伝兵衛さんは、前回の俺と同様にコカ・コーラの古い瓶の自販機に目を付けた。
このタイプの自販機にお世話になった世代である。
早速、コーラを一本引き抜いた。
自販機に括り付けの栓抜きで、シャポンと栓を抜く。
そして、一気に飲み干した。
あちらでは、ベースの吉見さんが、腰に手を当てて、コーヒー牛乳を飲んでいる。
ギターの恒ちゃんは、レトロな体重計に乗って遊んでいる。
懐かしい昔の銭湯の風景である。
皆、昭和のおやじ達なのだ。

 

首にタオルを巻き付け、来た道を引き返す。
秋の夕暮れの風が気持ち良い。

伝兵衛さんは上機嫌で、鼻歌まじりで歩いていた。
まずは「神田川」。
♪あなたはもー 忘れたかしら。赤い手拭いマフラーにして。
と、口ずさむ。

次の曲は「上を向いて歩こう」だ。
俺は、間奏部分に口笛を吹いて答える。

帰りはアッと言う間に「アザーサイド」に辿り着いた。


良い雰囲気だ。
今日のライブはいつも以上に期待が出来そうである。

 

ーつづくー

 

秋のツアー(大阪ニコチャン堂)~1991年10月その4~

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新型コロナのため家にいる時間が多くなった。
やることも無いので部屋の整理をしていると・・・

昔の手帳が出てきた。
1985年から2010年まで。

あの頃はスマホどころか、ガラケーも無い時代で、予定は手書きで手帳に書いていたのだ。
2010年以降はきっと携帯に予定を打ち込んだためにないのであろう。

さて、ちょっとだけ手帳のなかを覗いてみるか。

1991年、私は「伊太地山伝兵衛商会」と云うバンドに参加していた。

 

1991年
10月23日 横浜BUDDY
10月24日 茅ヶ崎R'Sステージ
10月25日 難波ロケッツ
10月26日 大阪ニコチャン堂
10月27日 京都アザーサイド
10月28日 京都ろくでなし
10月30日 大阪ミノヤホール
11月1日  和歌山オールドタイム
秋の関西ツアーだ。
ん?あああ思い出した。時を戻そう。

前日の難波ロケッツのライブの後、宿泊は秋のツアーから加わった、ブルースハープの尾崎さんの千里ニュータウンの家だった。
午後になり、ここから新御堂筋を南に下り心斎橋に出撃した。

東心斎橋の小さな地下のバー「ニコチャン堂」に出るのは、3回目だった。
ここで、ライブを演る時は、伝兵衛商会専用の小さなドラムセットを階段で地下一階に運び込んでいた。

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リハーサルが終わった後に、遊びに来ていたハート文字アーティストの「リキュウ」さんに、近くの店に連れて行ってもらった事を覚えている。

「リキュウ」さんは食通で、地元の美味い物を知り尽くしている。
彼の後に付いていけば間違いないのだ。
連れていかれたのは、歩いて10分ほどの心斎橋筋の店だ。

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暖簾を潜ると、丸椅子にテーブルの昭和の定食屋だった。
メニューが所狭しと壁に手書きで貼ってある。
伝兵衛さんも「おお、イイ感じの店ですね。」と大喜びだった。
あの人は、レトロな雰囲気が大好きなのだ。

皆、日替わり定食を食べた気がする。
ふっくらとしたアジフライが米によく合う。
味は言うまでもなく絶品だった。
二日酔いの体に、味噌汁が染み渡った。

 


この日、アジフライと共に覚えている事がもう一つある。


腹も膨れてニコチャン堂に戻ると、今日もお客さんで溢れていた。
ここでのライブは何故か受ける。
小さな地下の店は、今回も大盛況だった。

ライブが終わり、お客さんもはけて片付けが始まった。
機材を地下の店から狭い階段で上げなければならない。
伝兵衛商会はアコーステックバンドなので、ドラム以外はたいした機材が無かった。
それなのに、俺は前から誰もドラムの荷上げを手伝ってくれない事に不満があったのだ。

それがつい口に出てしまった。
俺はいつまでもお客さんと話ながらギターを弾いていた恒ちゃんに、少しは手伝ってくれ、とキレ気味に言ってしまった。
この後、恒ちゃんは申し訳無さそうに手伝ってくれたが、申し訳無いのは俺の方だった。
あんな事言わなければ良かった。

恒ちゃんの甘いギターの音色は、女性客に人気があったのだ。
それを妬んでいたのだ。
大したドラムセットでもないのに、一番言い易い恒ちゃんへの完全に八つ当たりだった。


この日を境に、メンバーは皆積極的にドラムを運ぶのを手伝ってくれるようになった。
有難かったが、同時に自分が情けなかった。
ドラムを運ぶ事もドラマーの仕事なのに。
今思えば、ツアーに慣れてワガママになっていたのである。

まだ夏のツアーはまだ半分残っていた。



ーつづくー

 

秋のツアー(難波ロケッツ) ~1991年10月その3~

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新型コロナのため家にいる時間が多くなった。
やることも無いので部屋の整理をしていると・・・

昔の手帳が出てきた。
1985年から2010年まで。

あの頃はスマホどころか、ガラケーも無い時代で、予定は手書きで手帳に書いていたのだ。
2010年以降はきっと携帯に予定を打ち込んだためにないのであろう。

さて、ちょっとだけ手帳のなかを覗いてみるか。

1991年、私は「伊太地山伝兵衛商会」と云うバンドに参加していた。

 

1991年
10月23日 横浜BUDDY
10月24日 茅ヶ崎R'Sステージ
10月25日 難波ロケッツ
10月26日 大阪ニコチャン堂
10月27日 京都アザーサイド
10月28日 京都ろくでなし
10月30日 大阪ミノヤホール
11月1日  和歌山オールドタイム
秋の関西ツアーだ。
ん?あああ思い出した。時を戻そう。

秋のツアーからは、ブルースハープの尾崎さんが、ツアーメンバーとして加わった。
尾崎さんは大阪の人で、千里ニュータウンの団地に一人で住んでいた。
少し太った、茶髪の気の良い大阪のおじさんで、赤いチェックのシャツがトレードマークだ。
今回から、伝兵衛商会は、彼の家に寝泊まりして関西ツアーの拠点にすることになった。

これには伏線があった。

前回の神戸のライブの後、俺とベースの吉見さんは、三ノ宮での打ち上げの後に朝まで二人でさらに飲みに行った。
いつの間にかメンバーはバラバラになり、俺と吉見さんは泊まる所が無かったのだ。
飲んでいた飲み屋が閉店となり酔っぱらって店を出たが、あまりの眠さに、俺は機材車で寝る事を思いついた。
車は生田神社近くの機械式パーキングの3階に置いてある。
鉄の網で出来た外から車が見えるタイプであった。
下から見えるものの、たどり着くには非常用のハシゴを登るしかなかった。

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俺は、酔っていたものの、なんとかハシゴを登り切り、機材車の後部座席に滑り込んだ。
落ち着いたのも束の間、遅れて吉見さんも機械式駐車場の下までなんとか辿り着いていた。
俺よりもかなり酔っぱらっている。
ハシゴにつかまり上に登ろうとチャレンジしている。
しかし、酔っぱらった体は持ち上がらずにぶら下がるのが精一杯だった。
登れないと分かると「おーい、おーい」と大声で騒ぎ始めた。

これがまずかった。

通報されてしまい、数人の警官がやってきた。

俺と吉見さんは生田神社の脇にある生田前交番に連行されてしまった。

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ここで取り調べを受けて、さんざん説教をくらった。
厳重注意で解放された時には、外は少し明るくなっていた。

こんな事件があったものだから、伝兵衛さんは関西での寝床を探していたのではないかと勝手に俺は思っている。


さて、話は戻るが。
尾崎さんとは、難波ロケッツで合流した。

難波ロケッツは、南海電車の高架下の商店街「なんばピア」にあったライブハウスだ。
惜しまれつつも、2016年2月に閉店してしまった。

ちなみに、この時は近くに大阪球場が残っており、グラウンドは住宅展示場になっていた。


出番までは、高架下の商店街をブラブラする。
行くあても無いので、すぐに飽きてしまった。
かと言って、出番前に酒を飲む訳にもいかず。
結局喫茶店で時間を潰した。

尾崎さんが加わった伝兵衛商会は、リハーサルで何曲か音合わせをしただけで本番に臨んだ。
しかし、本番では尾崎さんも隙あらばブルースハープをぶっこんでくる。
演っている方もどうなるか分からないスリリングな演奏になった。

尾崎さんは、この後も大阪近郊のライブにはレギュラー出演する事になる。


ーつづくー

 

秋のツアー(天国行きのバス) ~1991年10月その2~

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新型コロナのため家にいる時間が多くなった。
やることも無いので部屋の整理をしていると・・・

昔の手帳が出てきた。
1985年から2010年まで。

あの頃はスマホどころか、ガラケーも無い時代で、予定は手書きで手帳に書いていたのだ。
2010年以降はきっと携帯に予定を打ち込んだためにないのであろう。

さて、ちょっとだけ手帳のなかを覗いてみるか。

1991年、私は「伊太地山伝兵衛商会」と云うバンドに参加していた。

 

1991年
10月23日 横浜BUDDY
10月24日 茅ヶ崎R'Sステージ
10月25日 難波ロケッツ
10月26日 大阪ニコチャン堂
10月27日 京都アザーサイド
10月28日 京都ろくでなし
10月30日 大阪ミノヤホール
11月1日  和歌山オールドタイム
秋の関西ツアーだ。
ん?あああ思い出した。時を戻そう。

約4週間に渡った夏のツアーが終わって、伝兵衛商会はライブ活動を二ヶ月間休止していた。

ツアーは楽しいのだが、ライブをやって、打ち上げをして次の街に移動するのには、大変な体力を使う。
そして、長い間毎日同じメンバーの顔を見て生活するのにも飽きて来るのである。


再び、伝兵衛商会が動き出したのは、10月の終わりになってからだった。
秋のツアーは、関西への1週間の旅であった。
ツアーの皮切りは、恒例となった、横浜BUDDYと茅ヶ崎R'Sステージでのライブから始まった。

関東でのライブには、何時もの様に、お客があまり入らなかった。
しかし、ここはツアーのリハーサルを兼ねていて、新曲を試す場なのである。
それでも演らせてくれる各店のマスターには、感謝しかない。


この秋の新曲は、「天国行きのバス」だった。


www.youtube.com

伝兵衛さんは、ライブ本番のリハーサルの時にこの曲を持ってきた。
夏のツアーが終わってから伝兵衛商会としての活動が全く無かったので、伝兵衛さんは、書き溜めた歌詞にメロディを乗せたのだろう。
サビの歌詞に、ノーベル賞作家の大江健三郎が出て来るのが印象的だ。
伝兵衛さんのインテリっぽさが出ていると思う。

俺個人の感想だが、伝兵衛さんは、この曲をすごく気に入っていたと思う。
あの人は、自信が有る時ほど、人に相談して意見を聞くからである。
特にこの曲の場合がそうだった。
自分の中では、もうすでに曲が出来上がっているくせに、確認がしたいだけなのだ。

一通りコード進行を聞いて、曲に合わせて各々が思うままに演奏していく。
皆の意見を聞きながら、何度が違うパターンを試してみる。
自信無さげに、伝兵衛さんが自分の意見を言う。
その意見を聞いて、演奏を変えていく。
そして、イントロの後、キメが続き、だんだんとサビで盛り上がるジャズブルースが出来た。
最終的には、伝兵衛さんが思い描いていた曲の感じに持って行ったのであろう。
初めから曲は出来ていたのである。
平塚での合宿の記録が無いので、ライブのリハーサルで曲を聞いて、殆どぶっっけ本番で曲を演ったと思う。

ライブでこなして、段々と曲がまとまっていくのが伝兵衛商会流だ。
このツアーが終わる頃には、上手く仕上がっているに違いない。


こうして秋の関西ツアーが湘南から始まった。


ーつづくー