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酒飲み親父の自分史 「昔ロックしてた俺へ」

酒飲み親父が昔の手帳を見て半生を振り返るブログ

スティーブ・スミス ~1991年10月その1~

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新型コロナのため家にいる時間が多くなった。
やることも無いので部屋の整理をしていると・・・

昔の手帳が出てきた。
1985年から2010年まで。

あの頃はスマホどころか、ガラケーも無い時代で、予定は手書きで手帳に書いていたのだ。
2010年以降はきっと携帯に予定を打ち込んだためにないのであろう。

さて、ちょっとだけ手帳のなかを覗いてみるか。

1991年、私は「伊太地山伝兵衛商会」と云うバンドに参加していた。

 

1991年10月22日 新宿御苑前
スティーブ・スミスドラムクリニックに行った日だ。
ん?あああ思い出した。時を戻そう。

元ジャーニーのドラマー、スティーブ・スミスのドラムクリニックへ行った。
コマキ楽器が主催する、ソナーのドラムクリニックだ。
スティーブ・スミスは、ジャーニーを脱退し、ジャズセッションをしていた頃だった。

この日の事は、とても良く全てを覚えている。
彼は、大好きなドラマーの一人だった。

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クリニックは、地下鉄丸ノ内線の新宿御苑前駅近くのビブランシアターと云う場所で開催された。
地下1階にあったミニシアターで、キャパは50から60人といったところか。
映画館なので、厚い防音扉になっていたと思う。


こんな小さな場所に、憧れのスティーブ・スミスが来るのだ。
俺は、早くから行って最前列に陣取った。
パイプ椅子の客席前には、ソナーのドラムセットがセッティングされていた。
ドラムの色が明るい木目だったので、コマキ楽器が用意したスカンジナビアンバーチのソナーライトではなかろうか。

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動きが良く見える様に、ハイハットを手前に、左向きにセッティングされていた。


しばらく待つと、スティーブ大先生が現れた。
俺からの距離、約10メートル。
ドラム椅子に座ると、早速ドラムソロを叩きまくり始めた。
左手はトラディショナルグリップ。
バークリー出身者らしい、テクニカルなソロだ。

一通り叩き終えると、観客の前に出てきて挨拶をした。
コマキ楽器の広報の人が通訳をしてくれたと思う。
そして、スティックの持ち方から始まり、叩き方までを教えてくれた。
次は、過去に演奏した曲のリズムパターンを見せる。
ジャーニーの「ドント・ストップ・ビリーヴィン」のタムを加えたリズムパターンをやってくれた。


休憩時間になり、俺はトイレに行った。
7、8人が入れる大きさだったが、俺以外には誰もいなかった。
用を終え、手を洗っている時に、誰かが入ってきた。
なんと、スティーブ・スミスだった。
俺は、一瞬固まったが、すぐに気を取り直して話しかけた。
「ヘイ、スティーブ、サインプリーズ」
と言って、持っていたスティックケースとマジックペンを渡した。
スティックケースには、ライブの時に曲順を書く為に、マジックが入っていたのだ。
慌てていて、
May I have your autograph?
なんて英語を思い出す暇もなかった。

スティーブは、少し驚いた様な表情をしたが、快くスティックケースにサインを書いてくれた。
彼も、まさかトイレでサインをねだられるとは思ってもいなかったに違いない。

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再び、クリニックが始まり、ルーディメントを使ったドラムセットでの応用編。
ダブルパラディドルで、アクセントをシンバル+バスドラムにしたパターンだ。

> >    > >
RLRLLL LRLRLL

を段々早くして、凄まじい速さで叩いて見せた。
最後に、質問コーナーで、クリニックは終了した。
時間にして、一時間半。
色んなドラムクリニックに行ったが、一番面白かった。
なにせ、小さな会場だったので、スティーブ・スミスとの距離が近かった。


クリニックが終わり、興奮冷めやらぬままサインの入ったスティックケースを大事に抱えて帰った記憶がある。


ーつづくー

 

夏のツアー(山川町観光) ~1991年8月その22~

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唐船峡そうめん流し

新型コロナのため家にいる時間が多くなった。
やることも無いので部屋の整理をしていると・・・

昔の手帳が出てきた。
1985年から2010年まで。

あの頃はスマホどころか、ガラケーも無い時代で、予定は手書きで手帳に書いていたのだ。
2010年以降はきっと携帯に予定を打ち込んだためにないのであろう。

さて、ちょっとだけ手帳のなかを覗いてみるか。

1991年、私は「伊太地山伝兵衛商会」と云うバンドに参加していた。

 

1991年
8月 1日 京都アザーサイド
8月 2日 大阪ニコチャン堂
8月 3日 神戸ステラ
8月 4日 六甲山カンツリーハウス
8月 5日 移動
8月 6日 移動
8月 7日 湯布院
8月 8日 大分ブリックブロック
8月 9日 天ケ瀬 水光園
8月10日 中津江 松原ダム
8月11日 宮崎ひまわり荘
8月12日~16日 フリータイム
8月17日 奄美大島
8月19日 加世田
8月20日 鹿児島T-BONE
フォーク系バンドは夏のツアーが稼ぎ時だ。
ん?あああ思い出した。時を戻そう。

昨日のT-BONEで、今回のツアーのライブを終えた。
たらふく飲んだ翌朝、8月21日。
天文館のビジネスホテルをチェックアウトした後、ツアーの最後に、ギターの恒ちゃんの実家を訪ねる事になった。
恒ちゃんの実家は、薩摩半島の南端の山川町だ。

鹿児島市内から錦江湾沿いの国道226号を南下する。
桜島と美しい海が、ずっと左手に見えている。
晴天のドライブ日和だ。
ベースの吉見さんは、
「夜中にはここで飲酒の検問をやる。
海岸沿の一本道は逃げられないぞ。」
との、いらん情報をぶっこんでくる。
吉見さんは、指宿のホテルで箱バンの経験があるのだ。

1時間半ほどで、砂むし温泉で有名な指宿を通り過ぎる。
九州出身のメンバー達は「砂むし温泉は入るもんじゃない。」と口を揃えて言う。
まずは、砂が重い。
次に、痒くても顔を掻けない。
そして、一番の理由は、砂を落とす為に、もう一度普通の温泉に入らなければならない
から,、だそうだ。


車は、さらに走って行く。
すると、形が特徴的な山、「竹山」が右手に見えてきた。

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もう山川町は近い。

ここからは、ギターの恒ちゃんが観光案内担当だ。

まずは、薩摩半島最南端の長崎鼻パーキングガーデンへ。

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ここには行ったが、海と灯台を見た記憶しかない。
動物がいたような、いなかったような。

つぎは、日本最南端の駅、西大山駅へ。
ここは、無人駅で薩摩富士と云われる開聞岳をバックにした写真が映える場所だ。

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しかし何と言っても、今回の一番の思い出は「唐船峡のそうめん流し」である。

駐車場に車を止めると、入口と書いてある矢印に従って歩く。
しかし、店は遥か崖下の方にある。
階段を下りて行くと、だんだん涼しく感じて来る。

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谷底の川には、店が2軒並んでいて、指宿市営の店と民営の店がある。

市営の方が人気があって、我々も市営の店に並んだ。
夏には大人気のそうめん流しは、並ばなければ食べられないのだ。

やっと、順番となり、丸く回転する、そうめん流しのテーブル席についた。
そう、ここのそうめん流しは、丸いアクリルの枠の中でをグルグル回転するのだ。
まるで流れるプールである。

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これは、恒ちゃんに聞いた事だが。
1つのテーブルには、6から8人は座れるので、カップルで来ると長居しずらいらしい。

1人前には、山盛りのそうめんと鯉こくがセットになっていたと思う。
皆で一斉に、流し始めると、そうめんが固まって流れなくなる。
少しずつ入れるのがコツだ。
流したそうめんは皆で取るので、誰のそうめんか分からない。
沢山食べた人の勝ちなのだ。
そうめんをお代わりするほど美味かった。


食後、鰻池から池田湖へ。

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池田湖には、イッシーと言う未知の怪獣がいると云われている。
湖畔には、イッシーとネッシーの出合いの像があった。

 

観光が終わり、今日の泊まりの山川町の恒ちゃんの実家へ向かった。
恒ちゃんの実家では、家族上げての大歓迎だった。
晩飯は名物の「カツオのタタキ」をご馳走になった。

新鮮なので、カツオが苦手な俺でもタマネギと一緒なら美味かった。
そして、「だいやめ」が始まった。

客間には、竹で出来たスノコマットで寝床を作ってくれていた。
暑い南九州ならではの物だ。
布団の下にスノコで空間が出来るので、夏でも快適なのだ。
これのおかげで、すっかり熟睡した。


翌朝、朝食も用意してもらった。
朝のおかずは、カツオの腹皮だった。
腹皮と言っても腹の皮のことではない。
カツオの腹皮は、カツオの腹の身の部分。カツオの部位の中で一番脂がのっている部位だ。
朝から、テーブル一杯の贅沢な食事を頂いた。


長かった夏のツアーもいよいよ終わりだ。
帰りもフェリーに乗った記憶が無いので、機材車で走って帰ったに違いない。


ーつづくー

 

夏のツアー(鹿児島T-BONE) ~1991年8月その21~

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新型コロナのため家にいる時間が多くなった。
やることも無いので部屋の整理をしていると・・・

昔の手帳が出てきた。
1985年から2010年まで。

あの頃はスマホどころか、ガラケーも無い時代で、予定は手書きで手帳に書いていたのだ。
2010年以降はきっと携帯に予定を打ち込んだためにないのであろう。

さて、ちょっとだけ手帳のなかを覗いてみるか。

1991年、私は「伊太地山伝兵衛商会」と云うバンドに参加していた。

 

1991年
8月 1日 京都アザーサイド
8月 2日 大阪ニコチャン堂
8月 3日 神戸ステラ
8月 4日 六甲山カンツリーハウス
8月 5日 移動
8月 6日 移動
8月 7日 湯布院
8月 8日 大分ブリックブロック
8月 9日 天ケ瀬 水光園
8月10日 中津江 松原ダム
8月11日 宮崎ひまわり荘
8月12日~16日 フリータイム
8月17日 奄美大島
8月19日 加世田
8月20日 鹿児島T-BONE
フォーク系バンドは夏のツアーが稼ぎ時だ。
ん?あああ思い出した。時を戻そう。

加世田でのライブの後、鹿児島市内に戻り、本日の宿泊先の天文館のビジネスホテルに向かった。
ホテルにチェックインしたのは夜中だった。
名前は思い出せないが、天文館のアーケードの真ん中にあるホテルで、受付は二階にあった。
一階のエレベーターからは客室まで直接行けるので、誰でも連れ込めるホテルだな、と当時は思ったものだ。
今晩から明日のライブの日まで、このホテルで2泊する。

 

翌日、ライブの当日である。
昨晩は夜遅かったので、昼過ぎまでホテルで寝ていた。
午後に、メンバー揃って天文館の青年会議所に挨拶に行った。
小さな雑居ビルの二階だった記憶がある。
伝兵衛さんの知り合いがいて、ブッキングにも力を貸してくれている。
夜のライブでの再会を約束して、ここを後にした。

挨拶が終わると、その足で「くろいわラーメン」を食べて時間を過ごした。
「くろいわラーメン」は、この夏のツアーですっかりお気に入りになっていた。

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その後、再びホテルに戻って横になる。


夕方になり、いよいよ今夜の仕事場、T-BONEに乗り込んた。
天文館近くのビルの2階にある、老舗ブルースバーである。

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ドラムセットは置いてあるので、スネアとキックペダルだけを持って行った。
T-BONEの名前だけは知っていたが、思っていたよりも小さな店だなと思った。


店には結構なお客さんが入っていた。
伝兵衛商会は、鹿児島では人気があった。
伝兵衛さんがソロで何度も訪れていたからだ。
「伝兵衛、久しぶり。」と声がかかる。
和気あいあいと、ライブは進行して行く。
曲を知っているお客さんもいて、アンコールもあったと思う。

打ち上げは、青年会議所の方々が連れて行ってくれた。
一軒目は、天文館公園近くの黒豚料理屋だったと思う。

飲むのは、もちろん芋焼酎である。
皆がお湯割りを飲む中で、芋焼酎が苦手な俺だけはロックで飲んでいた。

鹿児島の人は、酒が大好きだ。
この日は、更にハシゴをして、多くの人と、とことん飲んだ。
途中の記憶は飛んでいて、朝方ホテルのエレベーターにやっと乗り込んだ記憶しかない。


今回の夏のツアー、最後のライブがやっと終わった。


ーつづくー

 

夏のツアー(加世田ライブ) ~1991年8月その20~

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在りし日の加世田駅

新型コロナのため家にいる時間が多くなった。
やることも無いので部屋の整理をしていると・・・

昔の手帳が出てきた。
1985年から2010年まで。

あの頃はスマホどころか、ガラケーも無い時代で、予定は手書きで手帳に書いていたのだ。
2010年以降はきっと携帯に予定を打ち込んだためにないのであろう。

さて、ちょっとだけ手帳のなかを覗いてみるか。

1991年、私は「伊太地山伝兵衛商会」と云うバンドに参加していた。

 

1991年
8月 1日 京都アザーサイド
8月 2日 大阪ニコチャン堂
8月 3日 神戸ステラ
8月 4日 六甲山カンツリーハウス
8月 5日 移動
8月 6日 移動
8月 7日 湯布院
8月 8日 大分ブリックブロック
8月 9日 天ケ瀬 水光園
8月10日 中津江 松原ダム
8月11日 宮崎ひまわり荘
8月12日~16日 フリータイム
8月17日 奄美大島
8月19日 加世田
8月20日 鹿児島T-BONE
フォーク系バンドは夏のツアーが稼ぎ時だ。
ん?あああ思い出した。時を戻そう。

台風の為に揺れに揺れたフェリーは、8月19日の朝にやっとの事で奄美大島から鹿児島に帰り着いた。
幸いにも、台風は九州をそれて鹿児島にはやって来なかった。
船を降りる時には、台風一過で快晴だった。

鹿児島港近くのファミレスで一服する。
そういえば、この頃は皆タバコを吸っていた。

今日は、夕方から鹿児島の加世田のジャズ喫茶でライブだ。
加世田は鹿児島市内から西にある、薩摩半島の海沿いの小さな街だ。
鹿児島市内からは、車で1時間30分の距離である。

出演する加世田のジャズ喫茶に着くと、挨拶もそこそこに楽器の搬入が始まった。
狭い場所に、「イナオイ君」ドラムセットを組んだ。

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これは、高円寺の稲生座の小さなステージ用に作った16インチのバスドラムセットだ。
フロアタムをノコギリで切って作った物だ。
奥行きが20センチ位なので、大抵の店にはセッティング出来た。

 

リハーサルが終わると本番までの時間、散歩に出かけた。
近くに、廃線になった南薩鉄道の加世田駅の駅舎が残っているらしい。

歩いて5分くらいの場所に旧加世田駅舎があった。
木造の旧駅舎は、朽ちかけていたが、なんとか保存されていた。
ホームに立つと線路は無く、遠くまで線路跡だけが続いていたと思う。
かつて、栄えていた南薩鉄道の面影だけが残っていた。

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【※南薩鉄道は、1983年(昭和58年)6月の豪雨で大きな被害を受けた。
同年7月に日置 - 加世田間は運行を再開したものの、経営は思わしくなかった。
伊集院 - 日置間と加世田 - 枕崎間は復旧しないまま1984年(昭和59年)3月18日の廃 止を迎えた。
今は加世田駅の跡にできた鹿児島交通加世田バスセンター内に、石造りの元倉庫を利 用した南薩鉄道記念館の建物が残っている。】

 

ジャズ喫茶に戻ると、お客さんが予想以上に入っていた。
狭い店は満員である。

加世田の夜に、伝兵衛商会のブルースが響き渡った。
哀愁のある、駅舎を思いながら演奏した。


ライブが終わると、すぐに打ち上げが用意されていた。
場所は近くの相撲茶屋だった。
座敷の真ん中に、テーブルを並べ、その両側に座布団が敷いてあった。

何故良く覚えているか、と言うと、ここで相撲甚句を聴いたからである。
打ち上げに来ていた地元の方が、乾杯前に披露してくれたのだ。
良い声の一節を聴いた後に「だいやめ」が始まった。
皆、芋焼酎を飲む中、俺はビールばかりを飲んでいた。

帰りには、もう一度出演した店に戻った。
お礼の挨拶をした後、機材車に乗り込んだ。
加世田の人々は、見えなくなるまでずっと手を振っていた。

台風一過の夜空には、綺麗な月が出ていた。


ーつづくー

 

夏のツアー(暴風雨の東シナ海) ~1991年8月その19~

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新型コロナのため家にいる時間が多くなった。
やることも無いので部屋の整理をしていると・・・

昔の手帳が出てきた。
1985年から2010年まで。

あの頃はスマホどころか、ガラケーも無い時代で、予定は手書きで手帳に書いていたのだ。
2010年以降はきっと携帯に予定を打ち込んだためにないのであろう。

さて、ちょっとだけ手帳のなかを覗いてみるか。

1991年、私は「伊太地山伝兵衛商会」と云うバンドに参加していた。

 

1991年
8月 1日 京都アザーサイド
8月 2日 大阪ニコチャン堂
8月 3日 神戸ステラ
8月 4日 六甲山カンツリーハウス
8月 5日 移動
8月 6日 移動
8月 7日 湯布院
8月 8日 大分ブリックブロック
8月 9日 天ケ瀬 水光園
8月10日 中津江 松原ダム
8月11日 宮崎ひまわり荘
8月12日~16日 フリータイム
8月17日 奄美大島
8月19日 加世田
8月20日 鹿児島T-BONE
フォーク系バンドは夏のツアーが稼ぎ時だ。
ん?あああ思い出した。時を戻そう。

奄美大島から鹿児島に帰る日がやってきた。
しかし、昨日のライブ前から降り出した雨は、激しさを増していた。
どうやら、大型の台風が奄美大島に接近しているらしい。
今日の夜のフェリーはなんとか出航するが、このフェリーに乗らなければ次の便は欠航となり、いつ船が出るか分からない状況だった。
明日は、鹿児島の加世田でライブの予定である。
何としても、このフェリーに乗らねばならない。

フェリーを逃したくないのは、誰しも同じで、乗り場は人で溢れかえっていた。

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行列に並び順番を待って、楽器を抱えながら、やっとのことで船に乗った。
乗れたのは良かったが、満席で二等の畳の座敷席には入れなかった。
船内は、通路の床にマットを敷いている状態だ。
さながら、台風の避難所の様になっていた。
おそらく、沖縄を出る時点で二等の自由席は埋まってしまったに違いない。
「あなた方も床でお願いします」と、誘導する船員に言われた。

すると、伝兵衛さんは、
「我々はミュージシャンである。」
「商売道具の楽器を持って乗船している。」
「床に大事な楽器を放置出来ない。」
「君は楽器の安全を保証出来るのか。」
と訴えた。

普段、温厚な伝兵衛さんが怒るのを初めて見た。
伝兵衛さんの圧に押れ、
船員は「少し待ってくれ。」と、言い残しこの場を去った。
暫くして戻って来ると、付いて来い、と言った。

彼に付いて行くと、二等の二段の寝台ベッドの部屋に案内された。
船には緊急用に部屋を余らせてあるのだ。

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ここならば、ベッドの上に楽器を置いて、カーテンをすれば、安心して眠る事が出来る。


奄美大島の名瀬港を乗客満載のフェリーが出港した。
港の防波堤を出た途端、船は大きく揺れた。
台風がせまる東シナ海の嵐は半端なかった。
体感では、2階から1階に落ちる位の揺れだ。
それがずっと繰り返される。
木の葉のように揺れるとは、正にこの事だと思った。
横になって寝付けないでいると船酔いしてしまう。
流石に、寝酒を飲む気もしなかった。

そのうち、船酔いで気分が悪くなり、便所に向かった。
便所に行こうと思っても、手すりを伝って行かなければ、歩く事も出来ない。
そして、行くまでの床には、マットが敷かれ、人が寝ているのである。
やっと便所に着いても、何も出なかった。

寝台に戻り、再び横になる。
俺は、吐きそうになりながら、なんとか堪えた。
ウトウトするだけで、熟睡出来なかった。


やがて、外が明るくなってきた。
彼方に開聞岳が見えてくる。
もうすぐ錦江湾である。
だんだん波がおさまってきた。
助かった。
あと数時間で鹿児島に到着する。

 

ヘロヘロになりながら鹿児島上陸。
しばらく地面が揺れていた。
気分が悪くなると、車は止まってくれるが、船はそうもいかない。
24時間の機材車での移動を耐えてきた俺だったが、今までで一番つらい乗り物酔いだった。

朝の鹿児島は、昨晩の嵐が嘘の様に晴れていた。


ーつづくー

 

夏のツアー(奄美大島ライブ) ~1991年8月その18~

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名瀬市公民館

新型コロナのため家にいる時間が多くなった。
やることも無いので部屋の整理をしていると・・・

昔の手帳が出てきた。
1985年から2010年まで。

あの頃はスマホどころか、ガラケーも無い時代で、予定は手書きで手帳に書いていたのだ。
2010年以降はきっと携帯に予定を打ち込んだためにないのであろう。

さて、ちょっとだけ手帳のなかを覗いてみるか。

1991年、私は「伊太地山伝兵衛商会」と云うバンドに参加していた。

 

1991年
8月 1日 京都アザーサイド
8月 2日 大阪ニコチャン堂
8月 3日 神戸ステラ
8月 4日 六甲山カンツリーハウス
8月 5日 移動
8月 6日 移動
8月 7日 湯布院
8月 8日 大分ブリックブロック
8月 9日 天ケ瀬 水光園
8月10日 中津江 松原ダム
8月11日 宮崎ひまわり荘
8月12日~16日 フリータイム
8月17日 奄美大島
8月19日 加世田
8月20日 鹿児島T-BONE
フォーク系バンドは夏のツアーが稼ぎ時だ。
ん?あああ思い出した。時を戻そう。

昨日は快晴で、奄美大島での海水浴を楽しんだのに、ライブ当日は朝からどんよりと曇っていた。
今日のライブは、名瀬の公民館で行われる夏の音楽祭のゲスト出演である。
昼になって、プロモーターさんのハイエースを公民館の搬入口に横付けして、楽器を運び込んだ。
古い公会堂であったが、ステージは高く、客席は映画館の様な階段席になっている。
バックヤードには個室の控室もあった。
ドラムは、会場の使いまわしの4点セットだった。
関係者だろうか、女子学生が楽器を持って観客席で走り回っている。
数曲ですぐにリハを終えた。
大体、リハーサルは、伝兵衛さんの喉のチェックであった。


ここまでは、曇ってはいたものの雨は降っていなかった。
リハーサルが終わってから出番まで時間があったので、名瀬の商店街を散策に行った。
一部はアーケードになっていた記憶がある。
あまり人気のない通りを、みやげ物を見ながらブラブラと歩いた。
店に並ぶのは、大島紬の小物が多かったイメージがある。

その後、喫茶店に入りアイスコーヒーを飲む余裕さえあった。
煙草を吸いながら、雑談をして時間を潰していた時だった。
喫茶店の窓ガラスに水滴が付いたのだ。
ついに曇っていた空から雨が振り始めた。

これは、マズイ。
誰も傘を持っていなかった。
雨粒はどんどん大きくなっていく。
喫茶店を出ると、公民館に向けて一目散に駆け出した。
公民館に逃げ込んた時には、傘をさしていても濡れる程の本降りとなっていた。
この夏のツアーは、何処に行っても天気が良くて、雨に降られたのは初めてだった。


公民館に戻ると、音楽祭はすでに始まっていた。
我々の出番は、地元のアマチュアバンドが5~6バンド演奏した後だった。
伝兵衛商会の持ち時間は、約40分。
最後の大トリは、地元の人気バンドが演るらしい。
中津江ミュージックフェスティバルでやったセットリストでライブをやったと思う。
大雨の中だが、どこにこんなに人がいたのだろうかと思うくらい、学生を中心にお客さんは結構入っていた。


ライブが終わり外に出ると、スコールさながらの土砂降りになっていた。
楽器を車に積んだ後、俺と吉見さんは、軒先を伝って雨宿りをしながら本気で走って、屋仁川の2階にある見覚えのある居酒屋に駆け込んだ。
Tシャツはビショビショだった。
伝兵衛さんと恒ちゃんも遅れてやってきた。
二人はどこで手に入れたのか、傘を持っていた。

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打ち上げは初めメンバーだけだった。
昨晩も利用した名瀬の繁華街、屋仁川の居酒屋だった。
会場を片付けた、プロモーターさん達も後から遅れて合流した。
奄美大島の酒は黒糖焼酎である。
俺には、芋焼酎よりは、口に合っていた。

この日は、夜遅くまで宴会は続いた。
しかし、雨は増々激しくなってくる。
聞く所によると、奄美大島に台風が接近しているらしい。
帰りは、タクシーを呼んでもらって帰った。


明日は、夜のフェリーで鹿児島に戻る予定である。


ーつづくー

 

夏のツアー(奄美大島観光) ~1991年8月その17~

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新型コロナのため家にいる時間が多くなった。
やることも無いので部屋の整理をしていると・・・

昔の手帳が出てきた。
1985年から2010年まで。

あの頃はスマホどころか、ガラケーも無い時代で、予定は手書きで手帳に書いていたのだ。
2010年以降はきっと携帯に予定を打ち込んだためにないのであろう。

さて、ちょっとだけ手帳のなかを覗いてみるか。

1991年、私は「伊太地山伝兵衛商会」と云うバンドに参加していた。

 

1991年
8月 1日 京都アザーサイド
8月 2日 大阪ニコチャン堂
8月 3日 神戸ステラ
8月 4日 六甲山カンツリーハウス
8月 5日 移動
8月 6日 移動
8月 7日 湯布院
8月 8日 大分ブリックブロック
8月 9日 天ケ瀬 水光園
8月10日 中津江 松原ダム
8月11日 宮崎ひまわり荘
8月12日~16日 フリータイム
8月17日 奄美大島
8月19日 加世田
8月20日 鹿児島T-BONE
フォーク系バンドは夏のツアーが稼ぎ時だ。
ん?あああ思い出した。時を戻そう。

8月16日早朝6時、鹿児島からのフェリーで奄美大島の名瀬港に到着し迎えを待った。

天気が良いが、日陰もない。
南国の夏の太陽は、朝からジリジリと熱い。
暫く港で待っていると、プロモーターさんが車で迎えにやってきた。
朝早すぎるので、取り敢えず、港から程近い彼の家へ向かった。
今日から二日間、ここでお世話になる予定である。
挨拶が終わり雑談をしていると、8時頃に彼は仕事に出ていった。
我々は、フェリーでの睡眠時間が短かったので、午前中は横になって過ごした。
何せ5時には起きて、下船の準備をしていたのだから無理もなかった。

プロモーターさんは、昼前に仕事から帰ってきた。
これから、食事の為にドライブをしてくれると言うので、彼のハイエースで出かけた。

名瀬の町は島の中程にあるが、北の空港の方へのドライブだった。

数十分行くと、綺麗な海が右手に見えてきた。
空港の看板を過ぎてさらに進む。
案内されたのは、島の北にある観光スポット「あやまる岬」だった。

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海の中に岬が吸い込まれている。
青い空に青い海が何処までも続く。
美しい絶景スポットだった。


暫く散策した後、食事に行く事になった。
近くに、連れて行きたい絶好のレストランがあるらしい。
そこは、車が沢山止まっている人気の店だった。
中に入り、窓際の座敷席に案内された。
メニューを見ると、奄美大島名物の「鶏飯」の店だ。

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「鶏飯」は、鶏のダシをかけた、奄美風お茶漬けである。
ご飯の上に乗るのは、見た目は冷やし中華の具に近い。
錦糸卵、甘辛く煮た千切りのしいたけ、パパイヤの漬け物のみじん切りが乗る。
もちろん、細かく割いた蒸し鶏のささみがメインである。
ゴマと細切りの海苔をふりかけてから、熱い鶏ダシを注いで食べる。
これを、冷たいビールと共に流し込むのだ。
本当に美味かった。
食欲のない夏にピッタリの食べ物だ。

 

昼食を兼ねたドライブを終えて彼の家に戻っても、まだまだ昼の陽は高かった。
一休みしてから、近くの海水浴場に出かける事に。
車で、一番近い海水浴場である「大浜海浜公園」まで送ってもらった。

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海岸の街道から階段で、砂浜に下りて行く。
砂が白い。
裸足で歩いても、足の裏に砂が付かない。
砂は日光で焼けて熱かった。

早速、物陰で海パンに着替えた。

水がきれいだ。
透き通っていて、海の底の白い砂が見える。
浜辺には数組の家族連れしかいなく、ほぼ貸切りだった。
海は遠浅で水遊びするには最適だ。
我々4人は、海から上がっても、砂浜に座って暫くこの美しい景色を見ていた。

大浜海岸での海水浴を満喫した頃、迎えの車がやってきた。
プロモーターさんは、自慢気に「海はどうでしたか?」と、聞いた。
もちろん、我々の答えは、「こんな綺麗な海は見たことがない。」
である。
しかし、彼曰く、大浜海岸などは序の口で、島の南部の加計呂麻では、更に綺麗な海が見られるらしい。

この夜は、名瀬の繁華街、屋仁川の居酒屋で歓迎会があった。
日焼けで火照った体に、冷たいビールが染み渡る。

明日の午後は、名瀬の公民館で行われる音楽祭にゲスト出演である。


ーつづくー

 

夏のツアー(フェリーで奄美大島へ) ~1991年8月その16~

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新型コロナのため家にいる時間が多くなった。
やることも無いので部屋の整理をしていると・・・

昔の手帳が出てきた。
1985年から2010年まで。

あの頃はスマホどころか、ガラケーも無い時代で、予定は手書きで手帳に書いていたのだ。
2010年以降はきっと携帯に予定を打ち込んだためにないのであろう。

さて、ちょっとだけ手帳のなかを覗いてみるか。

1991年、私は「伊太地山伝兵衛商会」と云うバンドに参加していた。

 

1991年
8月 1日 京都アザーサイド
8月 2日 大阪ニコチャン堂
8月 3日 神戸ステラ
8月 4日 六甲山カンツリーハウス
8月 5日 移動
8月 6日 移動
8月 7日 湯布院
8月 8日 大分ブリックブロック
8月 9日 天ケ瀬 水光園
8月10日 中津江 松原ダム
8月11日 宮崎ひまわり荘
8月12日~16日 フリータイム
8月17日 奄美大島
8月19日 加世田
8月20日 鹿児島T-BONE
フォーク系バンドは夏のツアーが稼ぎ時だ。
ん?あああ思い出した。時を戻そう。

8月15日の午後。
伝兵衛商会は、鹿児島のフェリー埠頭にいた。

この日の夕方のフェリーで、奄美大島に向かうのだ。
マルエーフェリーは、鹿児島と沖縄を結び、沖縄までは24時間かかる。
奄美大島の名瀬港には、その半分の12時間で、明日の早朝に寄港する。
島を結ぶフェリーは、人や車だけでなく食料などの生活必需品も運び、島のライフラインとして無くてはならないものである。

乗船券を買った後、出航の18時まで時間が有るので、フェリー埠頭にほど近い与次郎ヶ浜に「ザボンラーメン」を食べに行った。
これも、ギターの恒ちゃんのお勧めだった。

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「ザボンラーメン」とは言っても、決して果物のザボンが入っている訳ではない。
味はとんこつ系ラーメンだが、臭いが少なく、あっさりしていて食べやすかった。
キャベツのシャキシャキ感が心地よい。
食後は、船での宴会用の食料の買い出しをして、フェリー埠頭に戻った。


機材車は鹿児島のフェリー埠頭の駐車場に置き去りにして、楽器と着換えだけを持った。
俺の荷物は、スネアドラムとベダルケースとスポーツバックが1つである。
もちろん、奄美大島では手に入り難い「いいちこ」二本も詰め込んだ。

タラップを渡り、乗船する。
乗船券に従って船の階段を下りる。
我々の席は、一番安い雑魚寝の二等船室で、20畳くらいの畳のスペースである。
幸い、船内はそんなに混雑していなかった。
我々の畳のスペースは、貸し切り状態である。
しかし、楽器も一緒に持って来ているので、誰かが番をしなければならない。
メンバー4人の内、2人づつで船内を散策した。

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隣りの二等船室スペースには、団体客がいた。
修学旅行の学生達だった。
興味深そうに、サングラスと長髪のオジさん達を見ている。


フェリーが出港した。
錦江湾は内海なので、船は揺れないと聞いていたが、本当にすべる様に進んで行く。

しばらくすると、こちらをチラチラ見ていた修学旅行生の女の子のグループが話しかけてきた。
我々が楽団だと知ると、一曲やってくれと、ねだってくる。
仕方なく、恒ちゃんはギターをケースから出し、俺はブラシを取り出した。
吉見さんは、笑って見ていた。
俺は、畳を叩いてカウントを取った。
恒ちゃんが静かにイントロを弾きだす。
「上を向いて歩こう」だ。
伝兵衛さんは、囁くように一番だけを歌った。


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曲が終わると拍手が起こり、その後も、ずっと彼女達と話をしていた。
修学旅行で、沖縄に行く中学生だった。
夕食の時間になり、やっと彼女達は去っていった。

船は、まだ陽が落ちきらないうちに、山川町沖を進む。
開聞岳が黒くそびえ立って見える。
ギターの恒ちゃんは、自分の故郷の「薩摩富士」だと、誇らしげに語った。

錦江湾を出て東シナ海に入ると、少し船は揺れだした。
しかし、大した揺れではなかった。

やる事かないので、いよいよ「だいやめ」が始まった。
鹿児島弁で言う、晩酌である。
鹿児島で買っておいた、「いいちこ」の蓋を開ける。
つまみを夕食にして飲んだ。
そうこうしているうちに、消灯の時間になる。
黒いビニール枕と毛布一枚で雑魚寝をした。
俺はすぐには眠れなくて、しばし1人で、「いいちこ」をちびりちびり飲んでから眠りについた。

翌朝早朝5時、奄美大島の名瀬港に着いた。
空も海も青い。
ここで、乗客の半分は下船する。
生活用品を積んだトラックも下りて行く。
俺達が下りる時に、昨日の沖縄に行く修学旅行の女子学生達が手を振って見送ってくれた。
こっちも振り返って手を振る。


奄美大島は快晴であったが、朝早すぎて店も何もやっていなかった。
自販機で買ったポカリスエットを飲みながら、埠頭に腰掛けて迎えを待った。
海が太陽光を反射して眩しかった。


ーつづくー

 

夏のツアー(鹿児島の小さな温泉) ~1991年8月その15~

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宮之浦温泉

新型コロナのため家にいる時間が多くなった。
やることも無いので部屋の整理をしていると・・・

昔の手帳が出てきた。
1985年から2010年まで。

あの頃はスマホどころか、ガラケーも無い時代で、予定は手書きで手帳に書いていたのだ。
2010年以降はきっと携帯に予定を打ち込んだためにないのであろう。

さて、ちょっとだけ手帳のなかを覗いてみるか。

1991年、私は「伊太地山伝兵衛商会」と云うバンドに参加していた。

 

1991年
8月 1日 京都アザーサイド
8月 2日 大阪ニコチャン堂
8月 3日 神戸ステラ
8月 4日 六甲山カンツリーハウス
8月 5日 移動
8月 6日 移動
8月 7日 湯布院
8月 8日 大分ブリックブロック
8月 9日 天ケ瀬 水光園
8月10日 中津江 松原ダム
8月11日 宮崎ひまわり荘
8月12日~16日 フリータイム
8月17日 奄美大島
8月19日 加世田
8月20日 鹿児島T-BONE
フォーク系バンドは夏のツアーが稼ぎ時だ。
ん?あああ思い出した。時を戻そう。

オフの間お世話になっているベーシストの吉見さんの実家の近くには温泉があった。
歩ける距離ではなかったので、車で毎日通った。

九州には、共同の小さな温泉が数多くある。
入浴料は百円か二百円と格安である。
俺は、こういう温泉が大好きだ。
地元の人達の憩いの場になっているが、旅人として入るのも良いもんだ。
必ず、「兄ちゃん髪の毛が長いから女かと思った。」と、からかわれる。


この温泉の外観は、平屋の小さな小屋と云った所だ。
謎の「不思議な馬油有ります」と書かれた黄色い旗が、暖簾の脇で風に揺れていた。

入口を入ると、カウンターにおばちゃんがいて、入浴料を支払う。
飲み物やタオルも売っていて(不思議な馬油もあったに違いない)、小さなスペースにテーブルと椅子が置いてあった。

俺は、「不思議な馬油」の事がずっと気になっていた。
後に調べてみると、馬のタテガミから採った油を配合した保湿クリームらしい。

不思議な馬油 クリームタイプ120ml

不思議な馬油 クリームタイプ120ml

  • はるやフードライン株式会社
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ここの湯船はタイル造りで、8人も入れば一杯になる大きさだった。
お湯は熱かった気がする。
俺は、熱くて一気には入れないので、まずは足から。
次は腰まで、と少しずつ浸かる。
肩まで入るには、ずいぶんと時間がかかった。
しかし、地元の人は、ザブンと平気で入っていた。

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それにしても、昼間に入る温泉は格別だ。
夏なのに、湯上がりには不思議と汗をかかない。
湯が熱かったので、周りの温度を涼しく感じてしまうのだろう。


湯から上がると、遅い昼飯に行った。
吉田町の山を下り、伊敷団地を過ぎた時に、気付いた事があった。
学校のプールにビニールの屋根があるのだ。
丁度、プールをビニールハウスで覆った形である。
吉見さんに聞くと、桜島の火山灰から、プールを守る為の物だそうだ。


更に坂を下りて、甲突川の川辺にある「味のくろいわ」の支店でラーメンを食べた。
この味に完全にハマってしまっていた。

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そうそう、ラーメンを食べている時に、夏の甲子園のテレビ中継をやっていた。
鹿児島実業対帝京高校の一戦だった。
店員もお客もテレビに釘付けである。
俺は、迂闊にも、帝京の得点シーンで「ヨッシャ」と言ってしまった。
店内に居た全ての人が、一斉に俺の方を向いた。
咄嗟に、恒ちゃんが俺のTシャツの袖を引っ張る。
「ここでそれはマズイ」と言った。
ここは東京ではない、鹿児島である。
さすがに俺も全てを察した。
そう。
店に居る全員が「鹿実」を応援しているのだ。
それからは、大人しく黙ってラーメンを食べたのであった。
結局、帝京が勝った記憶がある。
店を出る時には、気まずかった。


食事の帰りがけに、伊敷団地の酒屋で買い出しをした。
昨夜、吉見さんに言われた様に、「いいちこ」を探す。

運よくこの店には、棚に並んでいた。
早速、三本買い占める。
他の人は、「さつま白波」とお母さん用のビールを買い、吉見さんの実家へと戻った。

今夜も、酒盛りである。
鹿児島の人は、「だいやめ」と呼ぶ。
ダレるのをヤメる、と云う意味らしい。
鹿児島人は、とにかく「だいやめ」が大好きなのである。


ーつづくー

 

夏のツアー(鹿児島市内観光) ~1991年8月その14~

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新型コロナのため家にいる時間が多くなった。
やることも無いので部屋の整理をしていると・・・

昔の手帳が出てきた。
1985年から2010年まで。

あの頃はスマホどころか、ガラケーも無い時代で、予定は手書きで手帳に書いていたのだ。
2010年以降はきっと携帯に予定を打ち込んだためにないのであろう。

さて、ちょっとだけ手帳のなかを覗いてみるか。

1991年、私は「伊太地山伝兵衛商会」と云うバンドに参加していた。

 

1991年
8月 1日 京都アザーサイド
8月 2日 大阪ニコチャン堂
8月 3日 神戸ステラ
8月 4日 六甲山カンツリーハウス
8月 5日 移動
8月 6日 移動
8月 7日 湯布院
8月 8日 大分ブリックブロック
8月 9日 天ケ瀬 水光園
8月10日 中津江 松原ダム
8月11日 宮崎ひまわり荘
8月12日~16日 フリータイム
8月17日 奄美大島
8月19日 加世田
8月20日 鹿児島T-BONE
フォーク系バンドは夏のツアーが稼ぎ時だ。
ん?あああ思い出した。時を戻そう。

8月13日、快晴。
鹿児島が初めての俺に、メンバーが鹿児島の街を案内してくれると言う。
宿泊している吉見さんの実家から、鹿児島市内へと繰り出した。

 

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まずは、天文館へ。
アーケードに商店が並ぶ、鹿児島一の繁華街である。

まずは、腹ごしらえだ。
近くに、おすすめのラーメン屋がある、と言う。
店の名前は「味のくろいわ」だ。

何故か、「味の」を必ず付けて呼ばなければならない。
メニューも豊富で、家族連れに人気の店らしい。
どうやら、二階席もあるようだ。
我々は、一階のカウンター席に陣取った。
皆に習って、定番のくろいわラーメンを注文した。
出てきたのは、豚骨ラーメンだった。
しかし、博多の豚骨ラーメンとは、明らかに違う。
もっと濃厚な味だった。
スープまで完食して店を出た。
外は、アーケードながら暑い。

そこで、ギターの恒ちゃん一押しのかき氷屋に行く事になった。
その店の名は「むじゃき」。

鹿児島の人ならば、知らぬ人はいない元祖「白熊」の店である。
鹿児島の人は、かき氷の事を「白熊」と呼ぶので、東京の喫茶店では通じなかった話はよく聞く。

天文館の中ほどに、その店はあった。
恒ちゃんは、大好きらしい。
食ったら、身体がムチャクチャ冷えるので、クーラーの前の席に座ってはいけないと、念をおされた。

夏の盛り、外は暑い。
しかし、店内は寒いほどに冷房が効いていた。

俺は定番の普通の「白熊」を注文した。

かき氷にしては、結構値段が高いな、と思った。

出てきたのは、フルーツが突き刺さった巨大かき氷だった。
東京のかき氷の倍はある。

周りを見ると、女性客は、普通に食べている。

俺も一口。
味は、カルピス練乳味だった。
頭が痛くなる。
なるほど、この大きさで、フルーツが入っていれば、この値段も納得出来る。
身体が冷え切ったところで店を出た。

天文館を後にして、桜島を眺めなかわら錦江湾を北へドライブ。
まずは、ザビエルの上陸地の銅像を車窓から見る。
フランシスコ・ザビエルは、初めは鹿児島に着いたのだ。
その後、豊後の大友宗麟を頼った事を知った。
そう言えば、大分駅の前には、大友宗麟の銅像もあったなあ。


その後、目的地の磯庭園に着いて、両棒餅(ジャンボ餅)を食べた。

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名前の由来は、餅に二本の串が刺さっているから「両棒」と言うらしい。
ここ磯庭園から見える桜島が一番美しいと云われている。
この日は天気も良く、納得の眺めだった。

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そして、庭園内の工芸館で薩摩切子を見る。
まるで、社会科見学である。

最後に、山の上にある磯山の遊園地に登った。
午後遅くなったせいもあるが人も少なく、何だか遊園地は寂れていた感じがした。
何か乗り物もあった様な気がするが、覚えていない。


さあ、暗くなって来た。
吉見さんの実家へ戻ろう。

お母さんが夕食を作って待っている。


ーつづくー