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酒飲み親父の自分史 「昔ロックしてた俺へ」

酒飲み親父が昔の手帳を見て半生を振り返るブログ

夏のツアー(加世田ライブ) ~1991年8月その20~

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在りし日の加世田駅

新型コロナのため家にいる時間が多くなった。
やることも無いので部屋の整理をしていると・・・

昔の手帳が出てきた。
1985年から2010年まで。

あの頃はスマホどころか、ガラケーも無い時代で、予定は手書きで手帳に書いていたのだ。
2010年以降はきっと携帯に予定を打ち込んだためにないのであろう。

さて、ちょっとだけ手帳のなかを覗いてみるか。

1991年、私は「伊太地山伝兵衛商会」と云うバンドに参加していた。

 

1991年
8月 1日 京都アザーサイド
8月 2日 大阪ニコチャン堂
8月 3日 神戸ステラ
8月 4日 六甲山カンツリーハウス
8月 5日 移動
8月 6日 移動
8月 7日 湯布院
8月 8日 大分ブリックブロック
8月 9日 天ケ瀬 水光園
8月10日 中津江 松原ダム
8月11日 宮崎ひまわり荘
8月12日~16日 フリータイム
8月17日 奄美大島
8月19日 加世田
8月20日 鹿児島T-BONE
フォーク系バンドは夏のツアーが稼ぎ時だ。
ん?あああ思い出した。時を戻そう。

台風の為に揺れに揺れたフェリーは、8月19日の朝にやっとの事で奄美大島から鹿児島に帰り着いた。
幸いにも、台風は九州をそれて鹿児島にはやって来なかった。
船を降りる時には、台風一過で快晴だった。

鹿児島港近くのファミレスで一服する。
そういえば、この頃は皆タバコを吸っていた。

今日は、夕方から鹿児島の加世田のジャズ喫茶でライブだ。
加世田は鹿児島市内から西にある、薩摩半島の海沿いの小さな街だ。
鹿児島市内からは、車で1時間30分の距離である。

出演する加世田のジャズ喫茶に着くと、挨拶もそこそこに楽器の搬入が始まった。
狭い場所に、「イナオイ君」ドラムセットを組んだ。

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これは、高円寺の稲生座の小さなステージ用に作った16インチのバスドラムセットだ。
フロアタムをノコギリで切って作った物だ。
奥行きが20センチ位なので、大抵の店にはセッティング出来た。

 

リハーサルが終わると本番までの時間、散歩に出かけた。
近くに、廃線になった南薩鉄道の加世田駅の駅舎が残っているらしい。

歩いて5分くらいの場所に旧加世田駅舎があった。
木造の旧駅舎は、朽ちかけていたが、なんとか保存されていた。
ホームに立つと線路は無く、遠くまで線路跡だけが続いていたと思う。
かつて、栄えていた南薩鉄道の面影だけが残っていた。

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【※南薩鉄道は、1983年(昭和58年)6月の豪雨で大きな被害を受けた。
同年7月に日置 - 加世田間は運行を再開したものの、経営は思わしくなかった。
伊集院 - 日置間と加世田 - 枕崎間は復旧しないまま1984年(昭和59年)3月18日の廃 止を迎えた。
今は加世田駅の跡にできた鹿児島交通加世田バスセンター内に、石造りの元倉庫を利 用した南薩鉄道記念館の建物が残っている。】

 

ジャズ喫茶に戻ると、お客さんが予想以上に入っていた。
狭い店は満員である。

加世田の夜に、伝兵衛商会のブルースが響き渡った。
哀愁のある、駅舎を思いながら演奏した。


ライブが終わると、すぐに打ち上げが用意されていた。
場所は近くの相撲茶屋だった。
座敷の真ん中に、テーブルを並べ、その両側に座布団が敷いてあった。

何故良く覚えているか、と言うと、ここで相撲甚句を聴いたからである。
打ち上げに来ていた地元の方が、乾杯前に披露してくれたのだ。
良い声の一節を聴いた後に「だいやめ」が始まった。
皆、芋焼酎を飲む中、俺はビールばかりを飲んでいた。

帰りには、もう一度出演した店に戻った。
お礼の挨拶をした後、機材車に乗り込んだ。
加世田の人々は、見えなくなるまでずっと手を振っていた。

台風一過の夜空には、綺麗な月が出ていた。


ーつづくー