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酒飲み親父の自分史 「昔ロックしてた俺へ」

酒飲み親父が昔の手帳を見て半生を振り返るブログ

年越しライブからの大塚まさじ邸 ~1992年1月その1~

新型コロナのため家にいる時間が多くなった。
やることも無いので部屋の整理をしていると・・・

昔の手帳が出てきた。
1985年から2010年まで。

あの頃はスマホどころか、ガラケーも無い時代で、予定は手書きで手帳に書いていたのだ。
2010年以降はきっと携帯に予定を打ち込んだためにないのであろう。

さて、ちょっとだけ手帳のなかを覗いてみるか。

1992年、私は「伊太地山伝兵衛商会」と云うバンドに参加していた。

 

1992年1月1日 横浜Buddy 0:30~
大晦日の年越しライブだ。
ん?あああ思い出した。時を戻そう。

1991年の大晦日。
この日は、横浜のBuddyという店で年越しパーティーで演奏した。
店の場所は横浜駅西口からは15分位か。
浅間下交差点の近くにあったバーだ。
小さな木造の店で、店の外にはバドワイザーのネオンが輝くアメリカンな店だ。
俺の通った大学の近くなのだが、この店の存在は全く知らなかった。
横浜のライブハウスと言えば、ジャズは関内のエアジン、ロックは桜木町のシェルガーデン、黄金町のグッピー位か。

この店には何度も出ていた。
本番を終えると、マスターが必ず生ビールを奢ってくれた事を覚えている。
小さい店だったから、ドラムセットではなく、スネアとハイハットだけで演奏していた。
0:30~と手帳に書いてあるので、カウントダウンが終わって年が明けてからの演奏だったのだろう。
結構お客さんがいた記憶がある。

ライブを終えると、そのまま葉山まで走るらしい。
俺はてっきり、平塚の伝兵衛さんの家に行くのかと思っていた。
しかしそれは、大塚まさじ邸で行われている新年パーティに参加するためだった。
横浜西口から葉山までは、元旦の夜中なので1時間かからない。
夜が明ける前に葉山に着いた。

森戸海岸の駐車場に車を止めて、そこから5分ほど歩いた。
まさじさんの家は葉山の海からほど近い、細い道を入った平屋の一軒家だった。
呼び鈴を鳴らすと、まさじさん自ら出迎えてくれた。
家に案内されると、テーブルや窓には東南アジア風の布が掛けられ、古いフォークやヒッピーを思わせる内装だ。
そこではすでに、マンドリンブラザース等5~6人のミュージシャンがちゃぶ台を囲んで飲み会をしていた。
テーブルには酒のつまみが並び、日本酒の一升瓶が置いたあった記憶がある。
伝兵衛さんが用意していた差し入れの日本酒を渡して宴会に加わった。

マンドリンブラザースのANNSANは、もう出来上がっている様だ。
遅れてやって来た我々に、飲めーと言う。
マンドリンブラザースのANNSANには夏のツアーで会った事があるので顔見知りだった。
俺が酒飲みと知っているANNSANはどんどん酒をついでくれた。
そうこうしている内に、だんだん外は明るくなって来た。


まさじさんがもう初日の出が上がってしまうぞ、と言う。
大急ぎで、初日の出を見るために海岸へ。
目指すは森戸神社だ。
まさじさんが先頭に、伝兵衛さん、まさじさんの息子の月君と一緒に海岸へと歩いて行った。
寒いけれども、凛とした正月の朝だった。
すでに、近所の人が大勢集まっていた。
神社ではお神酒を配っている。
もちろん一杯貰った。

暫くすると、初日の出が神社の鳥居越しに上がってきた。
とてもきれいだった。

明るくなったその後は、月君と磯遊びをした。
彼はこの辺に詳しく、岩場を走りまわっている。
俺は何故か子供にだけはモテるのである。




その後、大塚まさじ邸に戻り新年の挨拶をして退散した。
来年も又来るのだろうと思った。
しかし、この1回きりだった。


ーつづくー

 

冬のツアー(和歌山オールドタイム ほとんどMAD) ~1991年12月その8~

新型コロナのため家にいる時間が多くなった。
やることも無いので部屋の整理をしていると・・・

昔の手帳が出てきた。
1985年から2010年まで。

あの頃はスマホどころか、ガラケーも無い時代で、予定は手書きで手帳に書いていたのだ。
2010年以降はきっと携帯に予定を打ち込んだためにないのであろう。

さて、ちょっとだけ手帳のなかを覗いてみるか。

1991年、私は「伊太地山伝兵衛商会」と云うバンドに参加していた。

 

1991年
12月10日 葉山12時
12月11日 横浜Buddy
12月12日 茅ヶ崎R'S Stage
12月13日 移動日
12月14日 移動日
12月15日 淡路ジョルジュ(ロイヤルグレースホテル)
12月16日 神戸ステラ
12月17日 芦屋クリスマスパーティー
12月18日 和歌山オールドタイム
冬のツアーだ。
ん?あああ思い出した。時を戻そう。

この日の和歌山でのライブの事は全く思い出せない。
きっと、前日の芦屋のパーティーで飲み過ぎて二日酔いでヘロヘロだったのだろう。
いつもの事だ。
この頃の俺はドラマーのくせに車の免許が無かったのだ。
だから、いくら呑んでもよかった。
打ち上げで酔いつぶれても、起きた時には次の街に着いていたのだ。

オールドタイムには何度か出演しているが、決してお客さんが沢山入った訳ではなかった。
下手したら5人位の時もあっただろう。
他の小屋では、地元のバンドと対バンを組んでくれたりもしたが、オールドタイムではいつもワンマンだった。
それでも、快くライブをさせてくれたのは、マスターが伝兵衛商会の音楽を信じてくれていたからだろう。
そして、伝兵衛さんは、それに答えたライブをやっていたと思う。
どんなにお客さんが少なくとも、全力でライブをやるのだ。
少なければ、少ないなりに一人一人に声をかけ、盛り上げようとしていた。
伝兵衛さんや大塚まさじさんや西岡恭蔵さんなどのミュージシャン達は、お客さんが入ろうが入るまいが、常に全力を出すプロ根性を持っていた様に思う。
しかし。俺はお客さんが少ないと、途端にパワーダウンしてしまっていた。
早く、こんな公開練習みたいなステージを終わらせて、飲みに行きたいと思いながらドラムを叩いていたのだ。
そこがプロとアマチュアの差だったのかもしれない、と今は強く思う。

 

 

※※※※※※※ おまけ ※※※※※※※


先日、懐かしい人から「このブログを見たよ」という連絡をもらった。
元アンセムのドラマー「マッド大内」氏からであった。


www.youtube.com

30年前の事を、マッドもよく覚えていたもんだ。
俺の昔の手帳の電話番号欄にはマッドの自宅の電話番号がずっと書いてあるんだ。
数少ないドラム友達だった。
彼は今も現役で頑張っているとの事。
懐かしくて、涙ちょちょ切れたぜ。


あの頃の新宿ロフトは、九州のメンタイロックブームに押されて、ハードロックが少数派になってきた頃だった。
それでも関西から押し寄せる「アースシェイカー」「44マグナム」などの関西メタル勢に、関東では「アンセム」が対抗していた。
東京生まれの俺は、もちろんアンセム推しである。
ロフトに出演する時は、時間の許す限り観に行っていた。

アンセムは、メタルバンドとしては数少ないロフト打ち上げバンドだった。
他のバンドは乾杯ぐらいはしても、彼らほど長居はしない。
そのメンバーの中でも、同じドラマーでもあり、呑み助のマッドとは気の合う飲み友達だった。


www.youtube.com

細い体からは想像も出来ない、パワードラマーだ。
俺の知る中で、ドラム小僧とは彼以外にはいない。
しかし、ステージが終わると垂れ目が可愛いお喋りな少年に戻るのだ。
愛想のいい彼は、打ち上げではくまなく各テーブルを挨拶して廻る。
そして最後は、ロフトのノムさんと俺の居るテーブルに来て飲みまくるのだ。
酔っぱらうと、ワイルドアンセムのイントロのドラムソロを二人でエアードラムしたもんだ。

WILD ANTHEM

WILD ANTHEM

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わざわざシンバルをステージから持ってきて、得意のシンバルかじりも見せてくれたよなぁ。

 

さて、マッドが久々に連絡をくれた理由を聞くと・・・。

彼いわく、「このブログの事は、プリンセスプリンセスの加奈子から聞いたんだよ。懐かしい話を聞かせてくれてありがとう」、との事。
加奈ちゃんが読んでいた事にも驚いたが、マッドがメールをくれた事がとっても嬉しかった。

俺も、ブログを書きながら昔の風景が鮮烈に思い出される。
若い頃、毎日いい加減に生きていた時間が、今では貴重な時間だったんだなぁ。


マッド、また飲みに行こうぜ。


ーつづくー

 

冬のツアー(芦屋クリスマスパーティー) ~1991年12月その7~

新型コロナのため家にいる時間が多くなった。
やることも無いので部屋の整理をしていると・・・

昔の手帳が出てきた。
1985年から2010年まで。

あの頃はスマホどころか、ガラケーも無い時代で、予定は手書きで手帳に書いていたのだ。
2010年以降はきっと携帯に予定を打ち込んだためにないのであろう。

さて、ちょっとだけ手帳のなかを覗いてみるか。

1991年、私は「伊太地山伝兵衛商会」と云うバンドに参加していた。

 

1991年
12月10日 葉山12時
12月11日 横浜Buddy
12月12日 茅ヶ崎R'S Stage
12月13日 移動日
12月14日 移動日
12月15日 淡路ジョルジュ(ロイヤルグレースホテル)
12月16日 神戸ステラ
12月17日 芦屋クリスマスパーティー
12月18日 和歌山オールドタイム
冬のツアーだ。
ん?あああ思い出した。時を戻そう。

この日の事は良く覚えている。

神戸ステラでのライブ後、たらふく飲んだ翌日の午後。
すごく天気が良かった。
神戸のブッキングの世話をしてくれた女性、中野さんと芦屋の駅で待ち合わせをした。
芦屋の街は落ち着いていて、この街を歩く人達は裕福そうに見えた。
駅前を外車ばかり走っていた記憶がある。

中野さんは真っ赤なボルボ940エステートでやって来た。
高級なスウェーデン製のワゴン車である。

芦屋の駅ビルの地下の駐車場に車を止め、喫茶店で今日のライブの打ち合わせをしたのだ。
芦屋のアイスホッケー愛好会のクリスマスパーティーにゲスト出演するらしい。
伝兵衛さんは、ライブの行き先は告げるのだが、詳細は当日に分かるのだ。
ざっと打ち合わせを終えると、彼女のボルボで会場に向かった。
重厚なボルボのドアを閉めたのを覚えている。

会場は、住宅街の飲食店を貸し切りにしていたと思う。
芦屋のアイスホッケーチームのガタイのいい選手とその家族を含めた老若男女30人位が集まっていた。
上品な午後のティーパーティーと言ったところか。
小さなステージが作られていて、お客さんは皮張りのソファーに座っていた。
料理とお酒がワゴンに並んでいて、セルフサービスのスタイルだ。

楽器を運び込むと、まだ明るい冬の午後にライブは始まった。


まずは、伝兵衛さんの挨拶から。
今日のパーティーにゲストとして呼ばれた感謝を述べた。
そして、パーティーの雰囲気を壊さない様なスタンダードのジャズに、この日の為に練習したクリスマスソングを交えて演奏をした。

40分位演奏したら、休憩になった。
グラスを貰って、ビールを飲む。
今日は飲みながら演奏できる。
最高だ。

二回目のステージも、おとなしめのジャズタイム。
終わると、再びビールを飲む。

ここまでは、BGM的な演奏だった。

そして、三回目のステージ。
いよいよ伝兵衛商会のオリジナル曲で本格的なライブが始まった。
抑えていた音を開放し、まずは「伝兵衛商会のテーマ」からだ。
客席からは手拍子が始まり、盛り上がっていく。
40分程演奏しただろうか。
最後は「ウェスが聴こえる」でフィニッシュ。
拍手喝采で幕を閉じた。

演奏が終わったら、パーティー会場で飲み放題、食い放題で打ち上げだ。
本当に至れり尽くせりのライブでした。


ーつづくー

 

冬のツアー(最後の神戸) ~1991年12月その6~

トアロード

新型コロナのため家にいる時間が多くなった。
やることも無いので部屋の整理をしていると・・・

昔の手帳が出てきた。
1985年から2010年まで。

あの頃はスマホどころか、ガラケーも無い時代で、予定は手書きで手帳に書いていたのだ。
2010年以降はきっと携帯に予定を打ち込んだためにないのであろう。

さて、ちょっとだけ手帳のなかを覗いてみるか。

1991年、私は「伊太地山伝兵衛商会」と云うバンドに参加していた。

 

1991年
12月10日 葉山12時
12月11日 横浜Buddy
12月12日 茅ヶ崎R'S Stage
12月13日 移動日
12月14日 移動日
12月15日 淡路ジョルジュ(ロイヤルグレースホテル)
12月16日 神戸ステラ
12月17日 芦屋クリスマスパーティー
12月18日 和歌山オールドタイム
冬のツアーだ。
ん?あああ思い出した。時を戻そう。

 

12月15日は淡路島のロイヤルグレースホテルでライブを行った。

その夜、洲本の港近くの旅館で一泊して、午後には神戸に戻って来たのだと思う。
昨日来た道を辿って、淡路島の北端からフェリーで明石に渡ったのだろう。
大塚まさじさんとは、洲本で別れたのか、神戸で別れたのかも覚えていない。
ともかく、伊太地山伝兵衛商会は神戸の街に戻ってきた。
この頃の伝兵衛商会のホームタウンは、神戸と言ってもよかった。
飲み屋では、知り合いも多く遊ぶには事足りなかった。
俺の中では、一番良かった時だったのかもしれない。


12月16日は、神戸ステラでライブ。
伝兵衛号(オンボロの日産キャラバン)には、小さなPAセットも積んであり、どんな場所でもライブが出来るのだ。

ステラは三宮の北野坂にあった美容室だ。
ガラス張りで外から中が見える、おしゃれな空間である。
伝兵衛商会のライブの日は、店を休みにして、会場として提供してくれていた。
伝兵衛さんは、ライブの前に、ステラの「幸ちゃん」に髪を切ってもらっていた様な気がする。


さて、伝兵衛商会の音は、ベーシストが変わった事もあって、ブイブイな後のりから、オンタイムなソリッドな感じに変わったと思う。
新ベーシストの矢野君は、ランニングが得意なタイプだったからネ。
そして、伝兵衛商会の音は、なんちゃってJAZZから本格的な物へと変わって行く。


この日の打ち上げは、近くの老舗ライブバーの「TUB ROUND」だったと思う。
「TUB ROUND」のオーナーさんもライブに来ていて、店に誘われたのだ。
次は、うちで演ってくれみたいな事を言われたのかな。
伝兵衛商会は神戸では結構メジャーな存在に成っていた。


しかし、この日が俺が神戸に行った最後の日になった。
その後、今まで30年間、神戸には行っていない。

神戸本

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数年後の起きた大震災の時も、神戸の人達が気になってはいたが連絡出来なかった。
もともとマメでない性格のせいも有るのだが、その後起こる伝兵衛さんとの確執のせいだと思う。
本当に申し訳ないと思っている。


現在、ステラの場所は変わったらしいが「幸ちゃん」は健在らしい。
今度、神戸に行った時は、俺の髪も切ってもらいたいな。


ーつづくー

 

冬のツアー(淡路島の夜)~1991年12月その5~

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新型コロナのため家にいる時間が多くなった。
やることも無いので部屋の整理をしていると・・・

昔の手帳が出てきた。
1985年から2010年まで。

あの頃はスマホどころか、ガラケーも無い時代で、予定は手書きで手帳に書いていたのだ。
2010年以降はきっと携帯に予定を打ち込んだためにないのであろう。

さて、ちょっとだけ手帳のなかを覗いてみるか。

1991年、私は「伊太地山伝兵衛商会」と云うバンドに参加していた。

 

1991年
12月10日 葉山12時
12月11日 横浜Buddy
12月12日 茅ヶ崎R'S Stage
12月13日 移動日
12月14日 移動日
12月15日 淡路ジョルジュ(ロイヤルグレースホテル)
12月16日 神戸ステラ
12月17日 芦屋クリスマスパーティー
12月18日 和歌山オールドタイム
冬のツアーだ。
ん?あああ思い出した。時を戻そう。

12月だったのに寒かった印象がないんだよね。
この頃伝兵衛さんは、いつも黄色いジャンパーを着ていたな。


淡路島ロイヤルグレースホテルのライブの興奮冷めやらぬまま、ライブバー「ジョルジュ」で打ち上げがあった。

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素晴らしいライブの後で、打ち上げも盛り上がり、飲みまくった。
今日は泊りなので、伝兵衛さんも飲んでいた。
いつもライブ後すぐに移動するので、運転しない俺は飲んでいても伝兵衛さんは乾杯のビールに口をつけるだけで決して飲まなかったのだ。
この夜は楽しそうだった。
普段は気を使い、つまらなくても楽しいふりをする伝兵衛さんが、珍しく本気ではしゃいでいた。

打ち上げも終わり、今夜の宿へ案内された。
そこは海辺の小さな旅館だった。
畳に敷かれたふかふかの布団が心地よく、波の音が聞こえる。
他の人と居た記憶がないので、一人一部屋だったのだろう。
辞めてしまったベースの吉見さんがいれば、部屋飲み間違いなしだった。
最近昔のライブの写真を見るまでは、吉見さんと一緒にライブを演ったと錯覚していた。
その夜は波の音を聞いているうちに、眠ってしまった様だ。


翌日、目を覚まし宿の窓を開けると、昨日の夜は暗くて見えなかった景色がそこにあった。
なんて海に近いんだ。
瀬戸内海の際に建っている旅館だったのだ。
波の音がよく聞こえるはずである。

宿の外にメンバーが皆揃うと、朝食に案内された。
近くに美味い店があるらしい。
二日酔いでフラフラしながら歩く
港の近くの定食屋だったと思う。
まだ酔っていて、記憶がおぼつかない。
まあ、いつもの事だが。

朝から刺身定食を食べた記憶がある。
それがまた美味かったのだ。

淡路島の魅力は、食い物が美味い事だ。
玉ねぎ、魚、牛。
そして人が優しい。
兵庫県ではあるものの、イイ感じの田舎なのである。
海の好きな伝兵衛さんは、淡路島が大のお気に入りとなって、この後も何度もこの島を訪れる事となった。


朝食か済むと、この街を去る時がやってきた。
ジョルジュの皆さんに見送られ、今夜のライブが行われる神戸の向けて出発した。
途中、鳴門の渦潮を観に行ったかな。
この時、既に四国と淡路島は橋で繋がっていた。

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淡路島は良い思い出ばかりだ。


ーつづくー

 

冬のツアー(淡路島ロイヤルグレースホテル) ~1991年12月その4~

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新型コロナのため家にいる時間が多くなった。
やることも無いので部屋の整理をしていると・・・

昔の手帳が出てきた。
1985年から2010年まで。

あの頃はスマホどころか、ガラケーも無い時代で、予定は手書きで手帳に書いていたのだ。
2010年以降はきっと携帯に予定を打ち込んだためにないのであろう。

さて、ちょっとだけ手帳のなかを覗いてみるか。

1991年、私は「伊太地山伝兵衛商会」と云うバンドに参加していた。

 

1991年
12月10日 葉山12時
12月11日 横浜Buddy
12月12日 茅ヶ崎R'S Stage
12月13日 移動日
12月14日 移動日
12月15日 淡路ジョルジュ(ロイヤルグレースホテル)
12月16日 神戸ステラ
12月17日 芦屋クリスマスパーティー
12月18日 和歌山オールドタイム
冬のツアーだ。
ん?あああ思い出した。時を戻そう。

伊太地山伝兵衛商会と大塚まさじ一行は、明石からフェリーで淡路島に上陸。
島を南西に走る事1時間半、洲本に到着した。
洲本のライブバー「ジョルジュ」の方々に挨拶した後に、車で出演するホテルへ向かった。
車は街中から海岸の方に走った。
暫くすると、豪華なホテルが見えてきた。
今晩は、このホテルで演奏するらしい。

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そこは俺の想像を遥かに超えた場所だった。
名前は「ロイヤルグレースホテル」。
俺は全然知らなかったのだが、天皇・皇后両陛下がご宿泊したリゾートホテルとして有名であったらしい。

ホテルに着くと、まず目に入ってくるのは、ヨットハーバーである。
ホテルには専用のヨットハーバーが有り、何と船を横付けしてチェックイン出来るらしい。
いったいどんな金持ちが泊まるのだろうか?
一泊いくらするのだろうか?
こんな下世話な事ばかりが頭に浮かんだ。

我々は、ヨットハーバーを横目に、ホテルのエントランスに機材車を横付けした。
もちろん、入口も立派な造りである。
ホテルに入ると、中は吹き抜けのホールになっていて、床は大理石である。
その中央に一段高い円形の踊り場があった。
今日は、ここをステージにして演奏をさせてくれると云う。

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早速、セッティングが始まった。
ドラムは踊り場の一番奥である。
床を傷付けない様に、いつもよりも入念に、バスドラムの脚やシンバルスタンドの脚のゴムをチェックした。

セッティングが終わりリハーサルが始まった。
大塚まさじさんも交えて、数曲演ったと思う。
吹き抜けなので、ナチュラルなエコーがかかり、音が響いて最高だった。

リハーサルが終わると、本番までの時間はホテルの周りを散策した。
もちろん、ヨットハーバーにも行ってみた。
冬なので、ヨットは無かったが、こちら側にも専用のチェックイン場所が有るようだ。


暗くなり、ライトアップされたステージに伝兵衛商会が登場した。
客席はホテルのラウンジの応接セットのソファーを使用していて、まるでディナーショーの様であった。
もちろん満席である。
伝兵衛さんが、ギターを弾きながら客席に挨拶を始めた。
高い天井に声が響き渡る。
そして、いよいよ一曲目。
多分「ジョージア・オン・マイマインド」だったと思う。
俺はブラシをスネアドラムの上で回し始めた。
ザーザー云う音もナチュラルエコーが効いて、波の音の様に聞こえたのではないだろうか。
一曲終わるごとに、拍手が響き渡る。
夢の様な時間は、アッと言う間に過ぎていった。
最後の曲は、「ウェスが聴こえる」だったと思う。


ここで、伝兵衛商会はステージを下りて、大塚まさじさんとバトンタッチ。
まさじさんのソロライブとなった。

まさじさんの演奏を舞台袖で見ていた。
ライブ前は温厚な大阪のおじさんは、ステージが始まると別人の様になる。
リハーサルから真剣そのもので、プロ意識がとても高いと思った。
音を出し始めると、怖くさえ感じたのだ。


ソロステージが終わると、アンコールで伝兵衛商会とジョイントで演奏をする事に。
まさじさんを中央に、曲は「プカプカ」である。

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まさじさんの葉山の家で打ち合わせを行って、準備は万全であった。


本来、西岡恭三さんが歌う一番は大塚まさじさん。
二番は伊太地山伝兵衛さんである。

♪俺のあん娘は、煙草が好きで

♪俺のあん娘は、スウィングが好きで

三番は再びまさじさん。
四番は伝兵衛さんが歌った。

♪俺のあん娘は、男が好きで

♪俺のあん娘は、占いが好きで


拍手喝采で、ロイヤルグレースホテルのライブは大成功に終わった。

 

ーつづくー

 

冬のツアー(淡路島へ) ~1991年12月その3~

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たこフェリー

新型コロナのため家にいる時間が多くなった。
やることも無いので部屋の整理をしていると・・・

昔の手帳が出てきた。
1985年から2010年まで。

あの頃はスマホどころか、ガラケーも無い時代で、予定は手書きで手帳に書いていたのだ。
2010年以降はきっと携帯に予定を打ち込んだためにないのであろう。

さて、ちょっとだけ手帳のなかを覗いてみるか。

1991年、私は「伊太地山伝兵衛商会」と云うバンドに参加していた。

 

1991年
12月10日 葉山12時
12月11日 横浜Buddy
12月12日 茅ヶ崎R'S Stage
12月13日 移動日
12月14日 移動日
12月15日 淡路ジョルジュ(ロイヤルグレースホテル)
12月16日 神戸ステラ
12月17日 芦屋クリスマスパーティー
12月18日 和歌山オールドタイム
冬のツアーだ。
ん?あああ思い出した。時を戻そう。


湘南でのライブの後、すぐに車で西に向かった。

暗いうちに大阪に着いて、サウナで一泊したのだと思う。
なぜなら、伝兵衛さんと生ビールで乾杯した覚えがあるからだ。
仮眠をして、午後には千里のブルースハープの尾崎さんと合流して、彼の家に2泊お世話になった。

そして、12月15日の朝、いよいよ神戸に向かった。
神戸が初めての新メンバー矢野君を連れて、南京町を散策した後、機材車で三ノ宮の駅に向かった。
三ノ宮駅前で、大塚まさじさんと待ち合わせをしていたのである。
まさじさんは、時間どうりにギターを担いで駅前交差点で待っていた。
伝兵衛号にまさじさんも乗り込み、伝兵衛さん、恒ちゃん、矢野君、尾崎さん、まさじさん。
そして、俺の6人がオンボロのキャラバンに乗り込む事となった。

車は、淡路島へのフェリーが出ている明石へ向かった。
今は明石海峡大橋が架かっているが、この頃は、淡路島に行くにはフェリーに乗るしかなかった。

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通称「たこフェリー」と呼ばれているらしい。
明石から淡路島は見える距離で、このフェリーに乗ってしまえば、数十分の距離である。
我々は、名物の明石焼きを食べながら船を待った。


フェリーは淡路島の東端に着いた。
目指すは南西端の洲本の街だ。
またまた車は走り出す。
淡路島は大きな島で、横に長い。

途中、右手の丘に大きな白い観音像が見えた。
なんかの新興宗教の建物なのか。

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(この観音像は、2021年取り壊しが決まった。
高さ約100メートルの「世界平和大観音像(通称)」で、所有者がおらず国の所有となっていた。
老朽化で壁の一部が落下するなど危険性が高まっていた。
観音像は1982年に淡路市の海を望む高台に建てられ、観光スポットとして知られていた。)

洲本までは数時間かかったと思う。
やっと洲本城(下の城)の脇を通り、洲本の街に辿り着いた。

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一度、主催者であるライブバー「ジョルジュ」にご挨拶に行き、その後、今夜の演奏場所のロイヤルグレースホテルに行った。

そこにあったのは、超リッチな高級ホテルだった。


ーつづくー

 

冬のツアー(大塚まさじさん) ~1991年12月その2~

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新型コロナのため家にいる時間が多くなった。
やることも無いので部屋の整理をしていると・・・

昔の手帳が出てきた。
1985年から2010年まで。

あの頃はスマホどころか、ガラケーも無い時代で、予定は手書きで手帳に書いていたのだ。
2010年以降はきっと携帯に予定を打ち込んだためにないのであろう。

さて、ちょっとだけ手帳のなかを覗いてみるか。

1991年、私は「伊太地山伝兵衛商会」と云うバンドに参加していた。

 

1991年
12月10日 葉山12時
12月11日 横浜Buddy
12月12日 茅ヶ崎R'S Stage
12月13日 移動日
12月14日 移動日
12月15日 淡路ジョルジュ(ロイヤルグレースホテル)
12月16日 神戸ステラ
12月17日 芦屋クリスマスパーティー
12月18日 和歌山オールドタイム
冬のツアーだ。
ん?あああ思い出した。時を戻そう。

12月、冬のツアーが始まった。
伝兵衛商会は、ベーシストが代わって初めてのツアーだった。
そして、この冬のツアーの主役は大塚まさじさんだったのである。

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12月10日、葉山に行ったのは、まさじさんが葉山に住んでいたからだ。
まさじさんは、葉山海岸の森戸神社近くの小じんまりとした、古びたお洒落な平屋の家に住んでいた。
小さなお子さんもいた記憶がある。

 

「大塚まさじ」プロフィール(ホームページより抜粋)

1950年、大阪府茨木市に生まれ。 
1969年大阪・難波元町の小さな喫茶店「ディラン」のマスターとなる。
ここで西岡恭蔵、中川イサト、友部正人、加川良など、今も交際が続く多くの人たちと出会う。
ディランの常連の中からザ・ディランが生まれ、現在も継続中の大規模な野外コンサート「春一番」が始まり、店は関西音楽シーンの伝説的な場所となる。

1971年に永井ようとザ・ディランIIを結成。シングル「男らしいって解かるかい/プカプカ」でレコードデビュー。 
1974年の解散までに「昨日の思い出に別れを告げるんだもの」など5枚のアルバムを残す。 
1976年、ジャズテイスト溢れるアルバム「遠い昔ぼくは…」でソロデビュー。

以後、「風が吹いていた」

風が吹いていた

風が吹いていた

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「海と空 月と闇」

海と空 月と闇

海と空 月と闇

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「STREET STREET」

STREET STREET

STREET STREET

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「アイノウタ」

アイノウタ deluxe(デラックス)

アイノウタ deluxe(デラックス)

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「風のがっこう」

風のがっこう

風のがっこう

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「一輪の花」

一輪の花

一輪の花

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など毎回、趣の異なるアルバムを発表し続けている。
1985年 から全国ひとり旅ツアーを開始する。

伊太地山伝兵衛と知り合ったのも、この頃ではないかと思う。



俺は何度かフェスなどでご一緒させて頂いて、顔位は覚えて貰っていた。
そして、今回の冬のツアーのジョイントライブの為に、打ち合わせに葉山の大塚まさじさんの家に行ったのだと思う。
淡路島のライブでは、まさじさんの持ち歌の「プカプカ」や「コーヒールンバ」を一緒に演る事になった。
あまり覚えていないが、俺と伝兵衛さんと二人だけで行った気がする。
吉見さんが辞めてから、桑名晴子さんとSHOさんが、新宿の「日清パワーステーション」でライブをする時なども、伝兵衛さんと俺の二人で楽屋挨拶に行った。
それ位、俺は伝兵衛さんに信頼されていると思っていた。

大塚まさじさんとは、神戸での再会を約束して我々は葉山を後にした。

 

翌日は、淡路島でのジョイントライブで演る曲のリハーサルのため、「横浜Buddy」「茅ヶ崎R'S Stage」と湘南で2本続けてライブをやった。
新しいベーシスト、矢野君との連携を確かめる為もあった事は言うまでもない。

そして、その夜そのまま西へ走り出したのである。


ーつづくー

 

スコーピオンズ日本公演 ~1991年12月その1~

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新型コロナのため家にいる時間が多くなった。
やることも無いので部屋の整理をしていると・・・

昔の手帳が出てきた。
1985年から2010年まで。

あの頃はスマホどころか、ガラケーも無い時代で、予定は手書きで手帳に書いていたのだ。
2010年以降はきっと携帯に予定を打ち込んだためにないのであろう。

さて、ちょっとだけ手帳のなかを覗いてみるか。

1991年、私は「伊太地山伝兵衛商会」と云うバンドに参加していた。

 

1991年 12月5日 スコーピオンズ
スコーピオンズの来日公演だ。
ん?あああ思い出した。時を戻そう。

スコーピオンズが日本武道館にやって来た。
高校生の頃から、ちょっとマイナーなジャーマンロックの雄「スコーピオンズ」のファンだった。
哀愁を帯びたメロディー。
ファルセットの効いたクラウスマイネのボーカル。
ギターのルドルフ兄さんとマティアス・ヤプスが並んで体を揺らす「蠍フォーメーション」。
発売禁止になったレコードジャケットなど。
全てが暗黒のジャーマンロックなのだ。


スコーピオンズを見るのは初めてではなかった。
「スーパー・ロック '84 イン・ジャパン」以来2回目だ。

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真夏の西武球場は茹だるような暑さだった。
まだ西武球場はドームではなく、直射日光が照りつけていた。
この時、チケット代でお金を使い果たし、電車賃の他は500円しか持っていなかった。
オープニング前に、ビールを一杯買って、一文無しになった。
もう一杯ビールが飲みたかった。
しかし、飲んでしまうと歩いて帰るはめになる。

俺が観に行った8月11日の公演は、スコーピオンズや MSG、ホワイトスネイクが出演した日だ。
印象的だったのは、オープニングアクトの「アンヴィル」だった。
気迫あふれた演奏は、今も記憶に残っている。
その後に「ボン・ジョヴィ」が出演。
初来日の彼らは初々しく、ジョン・ボン・ジョヴィがPAのスピーカーによじ登って歌っていたのを覚えている。

そして「スコーピオンズ」の登場だ。
相変わらずの蠍フォーメーションは見ごたえ充分。
昼から始まったフェスは、まだ明るかった気がする。
特筆すべきは、次に出演したMSG の「ドクター・ドクター」の演奏の時に、スコーピオンズのルドルフ兄さんとクラウス・マイネが加わり、シェンカー兄弟の競演が観られた事だ。

そして、トリを飾るのは、ホワイトスネイク。
この頃からやっと暗くなってきた。
この時のドラマーはコージー・パウエル、ギターはジョン・サイクス。
今思うと、何と豪華な出演者であろうか。

 

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さて、今回の「スコーピオンズ」公演は日本武道館。
席はもちろんアリーナ席。
友人と、今か今かと開演を待った。

 

クレイジー・ワールド

クレイジー・ワールド

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一曲目は、最新アルバム「クレイジー・ワールド」から「Tease Me,Please Me」。
ギターにドラムのリズムが加わると、ルドルフ兄さんとマティアスが並んでズンズン跳ねて出てくる。
この二人は、息がぴったりで可愛い。
その後、ヒット曲「Blackout」で中盤のピークをむかえる。

アンコールは、日本語の「荒城の月」で大歓声だった。
最後は、お決まりのルドルフ兄さんとマティアス・ヤプスの蠍フォーメーション。
クラウス・マイネのマイクの投げ縄パフォーマンスで終了。


(セットリスト・91年12月5日 日本武道館)
Tease Me,Please Me
Lust Or Love
Bad Boys Running Wild
Make It Real
Hit Between The Eyes
Wind Of Change
I Can’t Explain
Don’t Believe Her
Rhythm Of Love
Coast To Coast
Can’t Live Without You
Blackout
Dynamite
Holiday
(ENCORE)
Big City Nights
荒城の月~Still Loving You
Rock You Like A Hurricane

(SCORPIONS 91‘来日公演日程)
12月3日 仙台サンプラザ
12月5日 日本武道館
12月6日 名古屋市公会堂
12月7日 大阪フェスティバルホール


ーつづくー

 

吉見さんの脱退 ~1991年11月その4~

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新型コロナのため家にいる時間が多くなった。
やることも無いので部屋の整理をしていると・・・

昔の手帳が出てきた。
1985年から2010年まで。

あの頃はスマホどころか、ガラケーも無い時代で、予定は手書きで手帳に書いていたのだ。
2010年以降はきっと携帯に予定を打ち込んだためにないのであろう。

さて、ちょっとだけ手帳のなかを覗いてみるか。

1991年、私は「伊太地山伝兵衛商会」と云うバンドに参加していた。

 

1991年
11月21日 リハ

11月22日 茅ヶ崎R'Sステージ
リハーサルをしてから、ライブを行っている。
ん?あああ思い出した。時を戻そう。

飛行機での大分ツアーから帰ってから、珍しくリハーサルを行った。
どこでリハをやったかは分からないが、おそらく平塚であろう。
翌日に茅ヶ崎R'Sステージでライブが入っている。

思い当たる事がある。
おそらく、この時から伝兵衛商会のベーシストが代わったのだと思う。
そうだ、このリハーサルは新しいメンバーの為のリハーサルだったのだ。


俺を伝兵衛商会に誘ってくれた、吉見さんが突然脱退した。

吉見さんとの出合いは、前のバンド「P-MACHINE」だった。
「P-MACHINE」は、ベースパートをキーボードの打ち込みで演奏していたが行き詰まり、ベーシストを呼んだ。
それが吉見さんだった。
その時、吉見さんは伝兵衛商会と掛け持ちだった。
鹿児島出身の「P-MACHINE」のキーボードが、同郷の吉見さんを誘ったのだが、それ以来、伝兵衛商会を含め3年以上、俺と一緒にリズムセクションをやって来た。

吉見さんは、鹿児島出身で城山観光ホテルでハコバンをしていたらしい。

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鹿児島で一番最初にチョッパーベースをやった、が口癖だった。
その後、遠藤賢司バンドを経て、伝兵衛商会に入ったと聞いた事がある。
吉見さんが「P-MACHINE」に加入したのは、伝兵衛商会がアコースティック3人組でイカ天に出演した後である。
その後「P-MACHINE」が解散して、俺を伝兵衛商会に誘ってくれたのだ。

彼は、鹿児島では名の通ったベーシストで、俺の鹿児島の知り合いには知らない人がいなかった。
メガネをかけた長髪の芋焼酎の好きな人だった。
俺に「焼酎のお湯割りは湯に後から焼酎を注ぐのだ。」と教えてくれたのもこの人だった。

何度このオジサンと飲み明かしたことだろう。
年下の俺をとても可愛がってくれた。

 

脱退の理由は音楽性の違い、と言った所だったか。
秋のツアーからその前兆はあった。
妙に後ろノリになって、もたって演奏するのである。
これは、メンバーからも不評で、何度も直すように言われていた。
しかし、本人は聞く耳を持たずに一向に直そうとしなかった。
俺も後ろ過ぎてやりにくいと言ったのにダメだった。
こうして、吉見さんと他のメンバーとの溝が深まっていた。

何故後ろノリにこだわったのかは今も謎である。


そして、遂にその日が来てしまった。

伝兵衛さんがクビを言い渡したのだろう。

後任は、よく稲生座にライブを見に来ていて、自称吉見さんの弟子の矢野君だった。

俺は、このバンドに誘ってくれた恩人であり、飲み友達でもある、大事な人を失ってしまった。

もっともっと話をして、引き止めれば良かった、と今も後悔している。


ーつづくー