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酒飲み親父の自分史 「昔ロックしてた俺へ」

酒飲み親父が昔の手帳を見て半生を振り返るブログ

吉見さんの脱退 ~1991年11月その4~

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新型コロナのため家にいる時間が多くなった。
やることも無いので部屋の整理をしていると・・・

昔の手帳が出てきた。
1985年から2010年まで。

あの頃はスマホどころか、ガラケーも無い時代で、予定は手書きで手帳に書いていたのだ。
2010年以降はきっと携帯に予定を打ち込んだためにないのであろう。

さて、ちょっとだけ手帳のなかを覗いてみるか。

1991年、私は「伊太地山伝兵衛商会」と云うバンドに参加していた。

 

1991年
11月21日 リハ

11月22日 茅ヶ崎R'Sステージ
リハーサルをしてから、ライブを行っている。
ん?あああ思い出した。時を戻そう。

飛行機での大分ツアーから帰ってから、珍しくリハーサルを行った。
どこでリハをやったかは分からないが、おそらく平塚であろう。
翌日に茅ヶ崎R'Sステージでライブが入っている。

思い当たる事がある。
おそらく、この時から伝兵衛商会のベーシストが代わったのだと思う。
そうだ、このリハーサルは新しいメンバーの為のリハーサルだったのだ。


俺を伝兵衛商会に誘ってくれた、吉見さんが突然脱退した。

吉見さんとの出合いは、前のバンド「P-MACHINE」だった。
「P-MACHINE」は、ベースパートをキーボードの打ち込みで演奏していたが行き詰まり、ベーシストを呼んだ。
それが吉見さんだった。
その時、吉見さんは伝兵衛商会と掛け持ちだった。
鹿児島出身の「P-MACHINE」のキーボードが、同郷の吉見さんを誘ったのだが、それ以来、伝兵衛商会を含め3年以上、俺と一緒にリズムセクションをやって来た。

吉見さんは、鹿児島出身で城山観光ホテルでハコバンをしていたらしい。

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鹿児島で一番最初にチョッパーベースをやった、が口癖だった。
その後、遠藤賢司バンドを経て、伝兵衛商会に入ったと聞いた事がある。
吉見さんが「P-MACHINE」に加入したのは、伝兵衛商会がアコースティック3人組でイカ天に出演した後である。
その後「P-MACHINE」が解散して、俺を伝兵衛商会に誘ってくれたのだ。

彼は、鹿児島では名の通ったベーシストで、俺の鹿児島の知り合いには知らない人がいなかった。
メガネをかけた長髪の芋焼酎の好きな人だった。
俺に「焼酎のお湯割りは湯に後から焼酎を注ぐのだ。」と教えてくれたのもこの人だった。

何度このオジサンと飲み明かしたことだろう。
年下の俺をとても可愛がってくれた。

 

脱退の理由は音楽性の違い、と言った所だったか。
秋のツアーからその前兆はあった。
妙に後ろノリになって、もたって演奏するのである。
これは、メンバーからも不評で、何度も直すように言われていた。
しかし、本人は聞く耳を持たずに一向に直そうとしなかった。
俺も後ろ過ぎてやりにくいと言ったのにダメだった。
こうして、吉見さんと他のメンバーとの溝が深まっていた。

何故後ろノリにこだわったのかは今も謎である。


そして、遂にその日が来てしまった。

伝兵衛さんがクビを言い渡したのだろう。

後任は、よく稲生座にライブを見に来ていて、自称吉見さんの弟子の矢野君だった。

俺は、このバンドに誘ってくれた恩人であり、飲み友達でもある、大事な人を失ってしまった。

もっともっと話をして、引き止めれば良かった、と今も後悔している。


ーつづくー