平塚マハリクマハリタ ~1990年12月その3~
新型コロナのため家にいる時間が多くなった。
やることも無いので部屋の整理をしていると・・・
昔の手帳が出てきた。
1985年から2010年まで。
あの頃はスマホどころか、ガラケーも無い時代で、予定は手書きで手帳に書いていたのだ。
2010年以降はきっと携帯に予定を打ち込んだためにないのであろう。
さて、ちょっとだけ手帳のなかを覗いてみるか。
1990年、私は「P-MACHINE」と「伊太地山伝兵衛商会」を掛け持ちして活動する事になった。
1990年12月25日 平塚
この頃お世話になっていた平塚のマハリクのクリスマスパーティーだな。
ん?あああ思い出した。時を戻そう。
この頃、伝兵衛商会は、東京は「稲生座」、横浜は「バディ」、平塚は「マハリクマハリタ」で月3本のライブを演っていた。
そして、春夏秋冬にはツアーに出るのである。
90年12月25日は、平塚の「マハリクマハリタ」のクリスマスパーティーに出演した。
地元のアマチュアバンドも参加したアットホームなパーティーだったと思う。
伝兵衛商会は、トリを任され、「日の出ブルース」などのノリの良い曲と、ジャズのスタンダードを演奏した。
手帳を見ると、翌日は夕方違うバンドのリハが入っていたので、伝兵衛さんは、俺を東京まで送ってくれたのだろう。
マハリクは、平塚のメイン商店街から一本はずれた明石町商店街の地下1階にあり、キャパは40人位のライブバーだった。
テーブルにソファーとスクリーンがあったので、平日はカラオケもやっていたのではないだろうか。
ステージは一歩で飛び乗れるほど低く、一応国産ドラムの4点セットが置いてあった。
伝兵衛さんは、マスターと仲が良く、店の開店前には自由に使わせて貰っていた。
伝兵衛商会では、スタジオ代がかからない理由がこれだったのだ。
その後、8トラカセットでレコーディングをしたり、桑名晴子さんをここに呼んでライブをしたり、ツアーのリハをしたりしたのだ。
ここで、全ての準備をして、西へと旅立っていた。
マハリクへは、江の島在住の桑名晴子さんを、伝兵衛さんが送り迎えしていたのかもしれない。
神戸のベーシスト天野SHOさんも来ていた。
その話は後ほど。
そして、平塚で覚えているのは、九州出身の伝兵衛商会のメンバーが、ケンタッキーフライドチキンが大好きな事。
駅前のケンタにはよく行った。
ベースの吉見さんは、食べ終わったケンタッキーの骨で、鳥の標本を作った話を自慢げにしていた。
本当にこの頃は、平塚によく行っていた。
ーつづくー