飛行機で大分へ(湯布院編) ~1991年11月その2~
新型コロナのため家にいる時間が多くなった。
やることも無いので部屋の整理をしていると・・・
昔の手帳が出てきた。
1985年から2010年まで。
あの頃はスマホどころか、ガラケーも無い時代で、予定は手書きで手帳に書いていたのだ。
2010年以降はきっと携帯に予定を打ち込んだためにないのであろう。
さて、ちょっとだけ手帳のなかを覗いてみるか。
1991年、私は「伊太地山伝兵衛商会」と云うバンドに参加していた。
1991年
11月 9日 8:30 全日空 羽田発大分行き 別府1本
11月10日 大分昼2本 湯布院1本
大分合同新聞主催の玖珠町のイベントに出演した時だ。
ん?あああ思い出した。時を戻そう。
大分合同新聞主催のイベントに呼ばれて、大分へ行く事になった。
大分空港に到着し、市内へのバスに乗った。
大分空港は、国東半島の南端にあり、空港から別府までは、約1時間かかる。
空港を出ると豊後水道を左に見ながら走るが、すぐに山道に入る。
暫くすると国道10号に入り、再び左手に海が見えてくる。
段々と町らしい風景となり、大分麦焼酎「吉四六」の看板が見えれば、別府のフェリーターミナルである。
ここでバスを降りて、迎えを待った。
別府のフェリーターミナルは、神戸からの大型フェリー「さんふらわあ」が航行している。
一度は乗ってみたかったが、伝兵衛商会は車で走るので乗ったことは無かった。
ターミナルビルの中にはレストランや土産物屋があり、大きなドライブインの様ものだった。
俺達はターミナル内をブラブラして迎えを待った。
待つこと十数分、伝兵衛さんの友人の大分合同新聞の人が車でやってきた。
挨拶を交わしてから、車に乗った。
たぶんレンタカーだつたのだろう。
今回のライブは、この車で大分県内をツアーする。
伝兵衛商会の機材車よりはまともな事は確かだ。
伝兵衛号は、エンジンを止めるとラジエターから水が漏れる。
不思議とエンジンがかかると水漏れが止まる。
そのために、ペットボトルに水道水を入れて積んでいた。
出発前に、ラジエターに水を入れるためである。
このオンボロ車で何度も九州まで往復した。
伝兵衛さんの友人とは別れ、国道10号を別府中心地に向かった。
暫くすると、別府タワーが見えてくる。
小さくて可愛らしいタワーだ。
それを越えると、右手に「トキハ」がある北浜の交差点だ。
「トキハ」とは、大分が誇る百貨店である。
俺の記憶では、この北浜のロイヤルホストでコーヒー休憩をしたと思う。
ここでなにやら電話をして、どうやら湯布院に行く事に決まった。
手帳には「別府1本」と書いてあったがキャンセルになった様だ。
携帯電話の無い時代、伝兵衛さんは公衆電話を掛け捲っていた姿を思い出す。
ブッキングをやりながらライブを続けるので、電話が欠かせないのである。
別府から国道210号を登り湯布院へ向かった。
湯布院に着いても、ライブ会場に行く訳でもなく待機が続いた。
そしてそのまま夕暮れを迎えた。
湯布院でのライブもキャンセルになった様だった。
その夜、プロモーターさんに連れられて、湯布院駅前の居酒屋に飲みに行った。
カウンターに座り、俺の隣に伝兵衛さん、その隣にプロモーターさんが座った。
俺をそっちのけで、二人でひそひそと話をしていた。
所々聴こえてくるのは、
「自衛隊」
「反対」
「賛成」・・・
居酒屋を出て、帰りながら伝兵衛さんに、事の顛末を聞いた。
今回の大分ツアーは、明日の玖珠町での自衛隊関係の音楽イベントがメインだった。
この日は、その前夜祭ライブが湯布院で開催されるので、湯布院に移動したのだ。
しかし、ライブは中止になっていた。
前夜祭ライブが中止の理由は、自衛隊反対派の運動の為らしい。
湯布院は、観光の他は自衛隊で食っている町で、自衛隊賛成派と反対派で対立しているらしい。
ライブ直前まで揉めていたと言う。
明日の本番も、騒ぎがあるかもしれなかった。
ーつづくー