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酒飲み親父の自分史 「昔ロックしてた俺へ」

酒飲み親父が昔の手帳を見て半生を振り返るブログ

伊太地山伝兵衛商会加入 ~1990年11月その1~

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新型コロナのため家にいる時間が多くなった。
やることも無いので部屋の整理をしていると・・・
昔の手帳が出てきた。
1985年から2010年まで。

あの頃はスマホどころか、ガラケーも無い時代で、予定は手書きで手帳に書いていたのだ。
2010年以降はきっと携帯に予定を打ち込んだためにないのであろう。

さて、ちょっとだけ手帳のなかを覗いてみるか。

1990年、私は「P-MACHINE」と「伊太地山伝兵衛商会」を掛け持ちして活動する事になった。

 

1990年11月9日 スネア 15:30~
初めての伝兵衛商会のリハだ。
ん?あああ思い出した。時を戻そう。

手帳には、1990年11月9日 スネアと書いてある。
きっとあの日に違いない。
スタジオに、スネアドラムを持って行ったと云う事だ。
俺は、伝兵衛商会用にDWの6インチのメイプルスネアを用意していた。
当時の値段で8万円ちょっとだった。 [rakuten:ishibashi-shops:10963965:detail]

  伊太地山伝兵衛は、九州は別府出身のブルースマンである。
俺は「P-MACHINE」のベースの吉見さんに聞くまで彼の事は全く知らなかった。
九州では、ちょっとした有名人らしい。

大分の進学校、大分舞鶴高校から慶応大学に進学し、地元で銀行員をしていた経歴を持つ。
年齢は、俺より五つ年上だった。

85年に神奈川県の平塚に出て来て、当時はギターの恒ちゃんと二人で暮らしていた。
何故東京ではなかったのかを聞いた事は無いが、生まれ故郷の別府と同じ海の近くに居たかったのではないだろうか。

この頃は、ツアーのかたわら、東京では高円寺の稲生座などの小さな小屋で活動をしていた。
89年12月23日に伝兵衛さん(Vo・G)と恒ちゃん(G)と吉見さん(B)の三人でイカ天に出場する。
この時のイカ天キングは、マルコシアス・バンプだった。
伊太地山伝兵衛商会は、3人組「四畳半ジャズ・フォーク・ブルース」バンドと番組で紹介された。
出演楽曲は「風のない部屋」だった。

審査員の伊藤銀次氏には「洗練されていていい、水割りが飲みたくなる」と賞賛されたが、完奏したもののマルコシアス・バンプに破れた。

その後、ベースの吉見さんは、90年から「P-MACHINE」と「伝兵衛商会」を掛け持ちする。


ドラム不在の音の薄さを感じていた伝兵衛さんは、ドラマーを探していた。
きっと、憂歌団の様な形を考えていたのだろう。
そこで、丁度都合が良かったドラマーが俺だった。

「P-MACHINE」で一緒に活動し、大学ではジャズ研、つのだ☆ひろドラム教室で一応ブラシも習っていた俺を、吉見さんが伝兵衛さんに紹介したのだ。


1990年11月9日。
この日は、初めて伝兵衛さんと会った日である。

伝兵衛さんとは、西新宿の貸しスタジオで会った。
俺は、ベースの吉見さんから、前もってデモテープをもらっていた。

さえない黄色のジャンパーを着た、サングラスの男が来た。
これが伝兵衛さんだった。
他には、ギターの恒ちゃん、ベースの吉見さんだ。

テープを聞いて練習した曲から、「レディフォーセール」と「ウエスが聞こえる」をやった。
ドラムを入れやすい曲を選んだのだろう。
俺は、スティックとブラシでフルセットのドラムを叩いたと思う。

この日のスタジオの後、正式に伊太地山伝兵衛商会に加入する事になった。

ギターデュオでやり始めた二人組時代を「第一期伝兵衛商会」とすると、イカ天に出たアコースティックの三人組時代を「第二期伝兵衛商会」、俺が加入したドラム有りの四人組時代は「第三期伝兵衛商会」である。

今まで参加したバンドでは、親父と言われて来た俺が、初めてバンドの最年少メンバーになった。


ーつづくー