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酒飲み親父の自分史 「昔ロックしてた俺へ」

酒飲み親父が昔の手帳を見て半生を振り返るブログ

渋谷EGGMAN ~1988年7月~

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EGGMAN入口

新型コロナのため家にいる時間が多くなった。
やることも無いので部屋の整理をしていると・・・

昔の手帳が出てきた。
1985年から2010年まで。

あの頃はスマホどころか、ガラケーも無い時代で、予定は手書きで手帳に書いていたのだ。
2010年以降はきっと携帯に予定を打ち込んだためにないのであろう。

さて、ちょっとだけ手帳のなかを覗いてみるか。

1988年、私は就職して3年で退社、仕事もせずに新宿でバンド活動をしていたのだ。
この頃はMGと言うバンドに参加していた。

 

1988年7月9日 渋谷EGGMAN
EGGMANに15時に集合している。
ん?あああ思い出した。時を戻そう。

1980年代、渋谷には数々のライブハウスがあった。
その中でも、大学時代のホームグラウンドは「屋根裏」だった。
屋根裏はセンター街を入って一本目の路地を右に曲がったキャバレーの上にあった。


この曲がり角の地下1Fにはその昔、「プリンス」と言うロック喫茶があった。
結構大きな喫茶店で、DJがいてお客のリクエスト曲をかけてくれる。
お客はリクエスト用紙に聞きたい曲を書いてウエイターに渡す仕組みだ。
高くてレコードを買えなかった高校生の俺は、良く通ったものだ。
各曜日で担当DJが変わり、若き日の和田誠「キャプテン」も在籍していた。
しかし、1978年には井の頭線の池ノ上に名前を変えて移転。
その後なくなってしまった。

この頃の渋谷は、シスコなどの輸入盤レコード店も出来て、「音楽の街」になっていたのである。
ちなみに、その前の渋谷は、神宮球場の早慶戦帰りの学生が集まる「お好み焼き」の街だった。
センター街の一等地には大きなお好み焼き屋が陣取り、その周りに何件も小さな店が並んでいたものだ。


話がそれてしまった。
屋根裏の話にもどると。
キャバレー「日の丸」の上にあった屋根裏は、搬入の時間には、お仕事のお姉さんとすれ違う事もあった。
屋根裏の搬入で一番大変な事は、エレベーターが無い事だ。
上に機材を運ぶには、坂になったスロープを押して3階まで登りらなければならなかった。

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良い所もあった。
楽屋がステージ階の上の階にあり、元は事務所として使われていた所なので、広く、ソファーにテーブル、スチール机等があった。
最上階なので、関係者以外は来れないのだ。
1986年8月には下北沢に移転していたので、1988年のこの頃にはもうなくなっていた。


EGGMANは、公園通りの坂の上。
渋谷公会堂の向いにある。
地下の店で、搬入は階段である。
そう言えば、東京のライブハウスには、エレベーターの付いた小屋は殆ど無かった。
マーシャルアンプやスタンドケースは運ぶのが大変だった。
しかし、EGGMANにも良い所は有った。
お客さんの入口と裏口の関係者入口とが分かれているのだ。

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EGGMAN楽屋口

演奏が終わると、お客さんの間を通らずに外に出れるのだ。
屋根裏のオールナイトパーティーの時などは、バンドの入れ替えが大変で、お客さんの中をかき分けて通らなければならなかった。

 

そして、この時代のバンドの売り方はなかなか難しかった。

・まずは、バンドを組む。
・練習して、デモテープを作る。
・それを持って、ライブハウスに売り込む。
・ハッタリをかませてライブをやる。
・ライブ動員のノルマに苦しむ。
・売れる事を信じて、赤字でライブを続ける。

こんな感じだ。
今は、動画アップとかすれば拡散するけど、昔は人に聞かせる術が限られていたのだ。



EGGMANと渋谷公会堂の間の道がある。
通称「ビクトリーロード」と呼ばれていた。

これを渡れれば、メジャーに行けて、渋谷公会堂で演奏出来るのだ。
この道は簡単に渡れそうで渡れない。

俺は渡れなかった。


ーつづくー