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酒飲み親父の自分史 「昔ロックしてた俺へ」

酒飲み親父が昔の手帳を見て半生を振り返るブログ

横浜バディ ~1990年12月その1~

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新型コロナのため家にいる時間が多くなった。
やることも無いので部屋の整理をしていると・・・

昔の手帳が出てきた。
1985年から2010年まで。

あの頃はスマホどころか、ガラケーも無い時代で、予定は手書きで手帳に書いていたのだ。
2010年以降はきっと携帯に予定を打ち込んだためにないのであろう。

さて、ちょっとだけ手帳のなかを覗いてみるか。

1990年、私は「P-MACHINE」と「伊太地山伝兵衛商会」を掛け持ちして活動する事になった。

 

1990年12月5日 15:00 横浜バディ
横浜の小さなジャズバーだ。
ん?あああ思い出した。時を戻そう。

 横浜駅の西口から少し離れた、三ツ沢からの坂を下りた、浅間下交差点に、「バディ」と云う小さなジャズバーがあった。

この頃の伝兵衛商会の横浜の拠点はこの店だった。

ハイネケンの看板が掛かるアーリーアメリカン調の小さなバーで、ここでライブを月イチペースでやっていた。

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伝兵衛さんの歌詞の世界観にぴったりの店だったのかもしれない。
あの人は場末のバーが好きだったから。

「♪薄汚れた店で グラスを傾ける 肩で刻むIt's a bluse WESが聞こえる」

 

あまりお客さんが入った記憶は無いが、マスターは気持ち良く演奏をさせてくれ、ライブが終わると、決まって生ビールを出してくれた。

狭いこの店では、ハイハットとスネアドラ厶だけで演奏した。

 

本番が始まるのに、お客さんがいない時には、誰か来るまで待っていた時もあった。

それでも、マスターは嫌な顔を見せずにいてくれた。

あまりにも、お客さんが来ない時は、マスター自ら電話をかけて、知り合いを呼んていたようだった。
こんな店に応援されていた事に感謝しかない。

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マスターにもう一度会いたいな。


ーつづくー