初めての九州ツアー(宮崎編) ~1990年11月その7~
新型コロナのため家にいる時間が多くなった。
やることも無いので部屋の整理をしていると・・・
昔の手帳が出てきた。
1985年から2010年まで。
あの頃はスマホどころか、ガラケーも無い時代で、予定は手書きで手帳に書いていたのだ。
2010年以降はきっと携帯に予定を打ち込んだためにないのであろう。
さて、ちょっとだけ手帳のなかを覗いてみるか。
1990年、私は「P-MACHINE」と「伊太地山伝兵衛商会」を掛け持ちして活動する事になった。
1990年11月21日 移動
22日 大分着
23日 打ち合わせ
24日 大分ブリックブロック
25日 宮崎
26日 博多
27日 博多
28日 移動
29日 高円寺稲生座
伝兵衛商会の初めての九州ツアーだ。
ん?あああ思い出した。時を戻そう。
大分のライブハウス「ブリックブロック」に出演した翌日は、宮崎でのライブである。
朝、大分駅前のグリーンホテルをチェックアウトして、国道10号を南下する。
大分から宮崎までは200キロほどで、今までの移動に比べると屁でもない距離だ。
しかし、その県境には「宗太郎峠」が待っていた。
九州の高速道路は、福岡から熊本を経由して、左側だけは宮崎まで繋がっていた。
しかし、右側は国道10号だけで、大分から宮崎に行くには「宗太郎峠」を越えるしかなかった。
俺は、この峠がどんなものかを知らなかった。
他のメンバーは九州出身なので当然知っている。
伝兵衛さんは、大分県。
恒ちゃんと吉見さんは、鹿児島県の産まれである。
大分県の南の佐伯市を過ぎると、車は段々と山道に入って行った。
登りながらの急カーブが続く。
車のスピードは極端に遅くなった。
俺は、今回、九州まで車で来た事で、長距離ドライブには自信を持っていた。
大分から宮崎までなんて、すぐに着くと思っていた。
しかし、峠に入ってから、これは尋常な道ではないと気づいた。
カーブがきつく、体が横に揺さぶられる。
これが一時間も続くのだ。
なんとか峠を登り下りに入ると、カーブの横揺れとブレーキによる前への揺れが合わさって、とうとう気持ち悪くなってしまった。
他のメンバーの手前、吐きはしなかったが、吐く寸前だった。
死ぬ思いで峠を超えた後に、「一ツ葉有料道路」に出た。
宮崎の海とフェニックスが美しい。
南国情緒満点だ。
俺は車の窓を全開にして、新鮮な空気を吸い込んだ。
あゝ、生き返った。
危ない所だった。
結局、宮崎までは四時間位かかった。
宮崎のライブの場所は、カーディーラーのショールームだった。
大淀川の近くだったと思う。
売り物の展示車をどけて、ステージを作ってもらっていた。
俺は、東京からキャラバンに乗せて持って来たパールの3点セットでドラムを叩いたと思う。
この日も、桑名晴子さんとのジョイントライブである。
先に伝兵衛商会が演奏して、後から桑名晴子さんデュオが登場する。
大分でワンステージやっているので、今回は慣れていた。
街道沿いのカーディーラーのライブステージはガラス張りで、暗くなると、行き交う車のヘッドライトで照らされて、思わぬ幻想的な効果があった。
特設の折りたたみ椅子は、お客さんで埋まっていた。
最後は、桑名晴子さんと伝兵衛商会で「上を向いて歩こう」を演ったかな。
なかなか、良いライブだったと思う。
打ち上げは、伝兵衛さんが、昔からよくお世話になっていた、宮崎駅前のアーケード商店街の焼き鳥「鉄砲」だった。
ここで自慢の焼き鳥を店の大将からご馳走になった。
仲良くなった、桑名晴子さん、天野SHOさんと乾杯だ。
この時は、先にホテルにチェックインしていたので、普段運転があるのでアルコールを控えている伝兵衛さんも飲んでいたと思う。
宿泊は、ホテル「ひまわり荘」で、全員シングルの個室だった。
立派なホテルで、桑名晴子さん達も同じホテルで、一緒にタクシーで帰ったと思う。
この時、宮崎のタクシーの運転手さんは、行き先も聞かずに走り出し、だいぶ走ってから「お客さん、何処に行きますか?」と聞いてきた。
俺は「今聞くんかい」と思ったが、伝兵衛さんは、怒りもせずに、宮崎の人はのんびりしているんだよ、と笑っていた。
その夜は、シングルの部屋なのに、ベースの吉見さんと部屋飲みしたと思う。
宮崎は、「宗太郎峠」以外は良い思い出しかないな。
ーつづくー