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酒飲み親父の自分史 「昔ロックしてた俺へ」

酒飲み親父が昔の手帳を見て半生を振り返るブログ

レジスタンスの話 ~1987年8月その3~

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新型コロナのため家にいる時間が多くなった。
やることも無いので部屋の整理をしていると・・・

昔の手帳が出てきた。
1985年から2010年まで。

あの頃はスマホどころか、ガラケーも無い時代で、予定は手書きで手帳に書いていたのだ。
2010年以降はきっと携帯に予定を打ち込んだためにないのであろう。

さて、ちょっとだけ手帳のなかを覗いてみるか。

1987年、私は就職して3年目、それと同時に新宿でバンド活動をしていたのだ。
この頃はMGと言うバンドに参加していた。

 

1987年 8月17日 池袋ヤマハ
             8月20日 大塚ペンタ
             8月22日 池袋ヤマハ
             8月23日 目黒鹿鳴館 本番
使った事の無いスタジオに3回入っている。
ん?あああ思い出した。時を戻そう。

MGのレコーディングが終わりバンドの活動は暫く無い。
仕事をしながら、夜中にレコーディングをしていたので疲れていた。
これで少し休めると思っていた矢先・・・。
友人のバンド「レジスタンス」のドラマーが抜ける事となり、サポートを頼まれた。
丁度この空いている週だった。

レジスタンスのメンバーは、ボーカルのカツミ、ベースのムー太郎。
ギターはまだヒロカズではなく、前任者の・・・名前が出て来ない。
?だったような気がする。
彼らは、1983年春から新宿ロフトに出始めたファンクロックバンドだ。
16ビート系の弾んだリズムを得意としている。
カツミの鼻にかかったファンキーでパワフルな歌声はその頃から定評があった。
だらしない格好をしてサンダルでステージに立つ事から「サンダル親父」とも呼ばれていた。

1987年のこの頃はドラムが抜け、暫くしてギターが抜ける変革の時期だった。
そんな時にサポートを頼まれたのだった。
急だったので、俺も断れば良かったのだが他に頼めるドラマーがいなかったのだろう。
仕方なく引き受ける事になった。
彼らの曲は何曲か聞いた事はあるが、いつもビールを飲みながら観ていたのでサビ位しか覚えていない。

8月17日に池袋のヤマハスタジオで、演奏する曲のカセットテープを渡された。
メンバーは来ずに、カツミと2人だけで、それを繰り返し聞きながら大事な部分だけを練習した。
曲を覚える事は宿題になった。
しかし、サラリーマンをしながらバンド活動をしていた俺には、十分カセットを聞きこむ時間がなかった。
残りの2回のリハーサルで、何とか曲の構成を覚えるのがやっとだった。

さて、2時間のリハーサル3回で本番の鹿鳴館に臨む事となった。

鹿鳴館は、ライブハウスというよりは小劇場に近い。
階段を降りた地下にある。
小屋の中ではステージが高いほうだ。
客席への入り口は、観音開きで映画館の入り口のようだ。
楽屋は長い廊下の奥にあった。
ステージの裏に位置しているのだろう。

本番は、40分か50分位の出番で7,8曲演奏したと思う。
なんとか間違えずに最後の曲まで行ったが、全く余裕など無かった。
イマイチな結果に、この後、俺にサポートの声がかかる事はなかった。
この後のドラマーは、大沢誉志幸バンドの今井智ちゃん、そして高橋ロジャー和久となって行く。
1989年11月、ロジャーの時にイカ天に出演。
完奏したものの破れ去ったが「ベストボーカル賞」「ベストプレイヤー賞」受賞している。

イカ天のリンクはこちら
https://www.youtube.com/watch?v=Q4c8VmrPjJQ


その後、ZIGGYの戸城憲夫プロデユースによりCD「チップ・ア・ディップ」をリリースした。
戸城憲夫はご存じでしょうが、元GDフリッカーズである。

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狂犬ベーシストyukiもいたと思うから、対バンはリアクションだったのろうか。
あるいは、宴会好きのyukiが打ち上げだけに参加したのかもしれない。
後にリアクション解散後、yukiはGDフリッカーズに加入する事になる。

皆、知り合いで、本当に狭い世界で人間がかかわっていたものである。


ーつづくー