ZGYのMJ ~1987年4月その4~
新型コロナのため家にいる時間が多くなった。
やることも無いので部屋の整理をしていると・・・
昔の手帳が出てきた。
1985年から2010年まで。
あの頃はスマホどころか、ガラケーも無い時代で、予定は手書きで手帳に書いていたのだ。
2010年以降はきっと携帯に予定を打ち込んだためにないのであろう。
さて、ちょっとだけ手帳のなかを覗いてみるか。
1987年、私は就職して3年目、それと同時に新宿でバンド活動をしていたのだ。
この頃はMGと言うバンドに参加していた。
1987年 4月21日 渋谷ラママ
ZGY
ラママでZGYと対バンかな。
ん?あああ思い出した。時を戻そう。
毎月数本のライブをこなしている時期だ。
バンドMGは、やはり渋谷のラママを中心にライブを行っていた。
手帳には1987年4月21日「渋谷ラママ ZGY」と書いてある。
ZGYのメンバーは後から加入したギターのMS以外は顔見知りだった。
TN(B),OM(Dr)とは、GDF時代に会っていたからである。
ギターのMSにもGDF時代に、加入してから会っていたが、数回でほとんど話をした事が無い。
今回は,印象深い出会いをしたZGYのボーカルMJの話をしよう。
1985年の秋か冬。
誰かは忘れたが、他のバンドを吉祥寺の曼陀羅に観に行った時の話だ。
多分、レジスタンスのライブだっただろう。
わざわざ吉祥寺まで見に行って、打ち上げに参加するほど親しいバンドは他にないからだ。
俺がZGYのボーカルMJに最初に合ったのは、多分この時だったと思う。
開演前の早い時間にMJは一人で現れた。
俺達が紙コップのビールを飲んでいる輪の中に入り込んで来た。
誰かの知り合いだったのであろうか。
周りの人間と談笑している。
俺は初対面だった。
黒いテンガロンハットをかぶり、首にはスカーフを巻いていた。
ヒラヒラのシャツの上にベストを羽織り、ブルージーンズにウエスタンブーツを履いている。
まるで自分がライブに出演するかの様だ。
俺も外タレを見に行く時は着飾るが、ライブハウスでは小綺麗な普段着だ。
帽子の奥に見える顔はまるで骸骨の様だった。
彼は紙コップのビールを持ちながらZGYです、と、しゃがれた声で名乗った。
俺はこの時、この男の名前がZGYであると勘違いしていた。
観客席でもその姿はかなり目立っていた。
ライブが終わると打ち上げまでやって来た。
俺も打ち上げに参加しているので、人の事は言えない。
曼陀羅からほど近い2Fにある居酒屋だった。
なぜか場所まで鮮明に覚えている。
普通、打ち上げは出演者のテーブルと、その他友人のテーブルで分けられる。
奥には出演者が座り、俺とMJは、その他友人テーブルだった。
彼は俺の左斜め前で飲んでいた。
靴を脱ぐタイプの居酒屋だったので、足が窮屈そうだった。
なぜならMJはスリムジーンズを履いていたからだ。
乾杯が終わると、周りの人間と話を始めた。
この時、彼の名前がZGYではなく、MJだと誤解が解けた。
しゃがれ声だが、あくまで控えめで、敬語を使い、礼儀正しい印象だった。
バンドをしたいけれども、メンバーがそろわずに活動できないと話していた。
俺の記憶では、生ビールジョッキ1杯ほどで先に帰ったと思う。
俺みたいに飲むために来たのではなかったからだ。
俺は酔っ払って終電で帰った記憶がある。
この日以来、MJをよく見かける様になった。
彼は顔を売るために色々なライブに顔を出していたからだ。
バンドを立ち上げる為にやはり人材を探していたのだ。
暫くは、そんな日が続いた。
そして、ついにメンバーを集める事に成功した。
MJが自分で目ぼしい人間に声をかけて出来たのがZGYである。
1986年にはメンバーが固まり、MJ(Vo),MS(G)、TN(B),OM(Dr)の4人となった。
GDFのボーカルだけを挿げ替えたメンバーだ。
手帳の1987年4月21日のライブはZGYが人気だ出て来てメジャーも見えて来た頃だった。
しかし、俺はこの時のライブの事は全く覚えていない。
ZGYは、この年の秋、メジャーデビューを果たした。
ーつづくー