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酒飲み親父の自分史 「昔ロックしてた俺へ」

酒飲み親父が昔の手帳を見て半生を振り返るブログ

バンドPLMの話 ~1985年2月 その4~

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新型コロナのため家にいる時間が多くなった。
やることも無いので部屋の整理をしていると・・・

昔の手帳が出てきた。
1985年から2010年まで。

あの頃はスマホどころか、ガラケーも無い時代で、予定は手書きで手帳に書いていたのだ。
2010年以降はきっと携帯に予定を打ち込んだためにないのであろう。

さて、ちょっとだけ手帳のなかを覗いてみるか。

1985年、私は大学4年生だった。大学ではジャズ研究会、それと同時に新宿でバンド活動をしていたのだ。
この頃は新宿LのPLMと言うバンドに参加していた。

1985年  2月29日 PLM 新宿L
              3月30日 PLM 新宿L
店員バンドPLMのライブだ。
ん?あああ思い出した。時を戻そう。

PLMのギタリストNと知り合ったのは。大学3年の時だったと思う。
彼は新宿Lの店員をしていた。
友達がドラムを募集していると紹介してくれた。
初めて会ったのは、新宿歌舞伎町の居酒屋だった。
この店に、呼び出されたのだ。
行ってみると、2階の座敷には7、8人ほどの男女が飲んでいた。
その中の髪の長い色白の男がギタリストNだった。
もうすでにかなり飲んでいて、ご機嫌だ。

バンドや音楽の話をして、デモテープをもらった。
このオリジナル曲を聞いて、後日音を合わせる事になった。
練習場所は閉店後の新宿Lらしい。

何時間か飲んだだろうか。
お開きとなって、会計になった。
なんと、俺とNの他はほとんど金を持っていない。
持っていても千円くらいだ。
割り勘に出来るはずもなく、有り金を集めて後は俺とNで1万円ずつ払った。
いつもこうなんだろうか?
しかし、Nはニコニコ笑って、金の事は気にも留めていない。
楽しければ幸せなタイプだ。
こうしてバンドPLMのメンバーとなり、酒飲みドラマーとなっていったのだ。

新宿Lには、貸出用のギターアンプ、ベースアンプはあるが、ドラムは無い。
俺はドラムを新宿Lの倉庫に置かせてもらった。
初めはパールのサンダーキングの4点セットだったと思う。
練習は新宿L閉店後の4時を過ぎてからだ。
週1回か2回、ステージを借りて練習した。
ドラムを片づけてから一杯飲む。
そして、外が明るくなった頃に家に帰った。

PLMは新宿Lに月1位で出演させてもらっていた。
このバンドは、コミカルなロックンロールバンドだ。
コミックバンドではないが、歌詞がコミカルなのだ。
Vo、G、B、D、Kの5人組だった。
そのうち2人が新宿Lの店員だ。
店員バンドなので、常連さんが見に来る。
と言うより、飲みに来る。

ライブ後はアンプ、ドラムを倉庫にしまうだけなので、片づけはすぐに終わった。
早速、打ち上げの準備が始まる。

新宿Lは夜のライブが終わると、朝4時までパブタイムになる。
ステージ下の客席には丸テーブルが何台かセッティングされ、折りたたみ椅子が置かれる。
人が多い時は、ステージ上にも丸テーブルが置かれた。
白黒の市松模様の床を思い出す。
さあ、打ち上げの始まりだ。

PLM場合、ライブより打ち上げの方がメインと言っていい。
ライブが終わるのを見計らって、飲み会だけ目当てに来る連中もいた。
俺たちが必ず打ち上げをする事を知っているのだ。
知らずに来た知り合いも輪に加わる。
打ち上げの方がライブ本番よりも人が多くなったりする。

打ち上げには、暗黙のルールがあった。
丸テーブル1つにつきサントリーホワイト1本、乾き物のカゴ1セットずつ。
これは、ライブの売り上げから出る。
ビールが飲みたい人は自腹だ。
ホワイト1本では足りるはずもなく、当然追加となる。
追加分は、テーブルごとにお金を出し合って現金払いするシステムだ。
だんだんお金が足りず、酒が無くなってくる。
最後は、まだお金を持っている人の奢りとなる。

新宿Lにとっては、ライブの売り上げよりも、打ち上げの売り上げの方が多かっただろう。
終電時間には多少人が減るが、残る者も多い。
初めから始発で帰る覚悟で来ているのだ。
飲み会は、いつも閉店時間の4:00まで続いた。
その後は、朝まで営業している大久保の「村さ来」で飲むのが定番だった。

家に帰ると、いつも財布は空になっていた。


ーつづくー