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酒飲み親父の自分史 「昔ロックしてた俺へ」

酒飲み親父が昔の手帳を見て半生を振り返るブログ

ラママ年越しパーティー ~1986年12月その2~

cmy select 赤ちょうちん 2個セット 居酒屋 or 営業中 屋台 店先 (5:居酒屋 営業中 各1)

新型コロナのため家にいる時間が多くなった。
やることも無いので部屋の整理をしていると・・・

昔の手帳が出てきた。
1985年から2010年まで。

あの頃はスマホどころか、ガラケーも無い時代で、予定は手書きで手帳に書いていたのだ。
2010年以降はきっと携帯に予定を打ち込んだためにないのであろう。

さて、ちょっとだけ手帳のなかを覗いてみるか。

1986年の手帳にはスタジオ練習とライブの予定が書いてあった。
私は就職して2年目、それと同時に新宿でバンド活動をしていたのだ。
この頃はMGと言うバンドに参加していた。

1986年  12月28日 渋谷ラママ
           12月31日 渋谷ラママ
ライブを重ねて、最後は年越しパーティーだ。
ん?あああ思い出した。時を戻そう。

バンドマンにとって、大晦日に家で紅白歌合戦を見るほどの屈辱は無い。
年越しライブに出演する事は一年の集大成なのだ。
どんなに小さな小屋でも同じである。

1986年12月31日。
渋谷のラママの年越しパーティーに出演した。

ラママは、裏の階段を降りて地下の楽屋に行けるようになっていた。
パーティーは沢山のバンドが出るので、楽屋は直前まで使えない。
前のバンドがステージに上がると楽屋に入れるシステムだ。
店の前は客で溢れている。
居る場所が無いので、坂の下の焼き鳥屋で時間を潰した。
飲みすぎると体が動かなくなるので、生ビール1杯でおあずけだ。

 前のバンドがステージに上がり楽屋が空いた。
衣装に着替え出番を待つ。
前のバンドが引きあげて来る。
入れ替わりにステージへ。
そして本番が始まった。

この日は足が妙に調子が良く、演奏を誉められた記憶がある。
気持ちよくライブが終わった。

さあ、打ち上げだ。
例によって、良く覚えているのはここからである。
パーティーは、アンプなどの機材が使い回しである。
ドラムも使い回すので、自分のドラムセットを持って来ない。
荷物はスネアドラムとキックベダルだけだ。
身軽なので、すぐに飲み屋に移動できる。

ライブ後、お客さんを引き連れ飲み屋を探した。

大晦日の夜中?あるいは新年になっていたかもしれない。
営業している店はあるものの、数十人に膨れ上がった人数が入れる店はない。
道玄坂を下り、センター街までゾロゾロとやってきた。

すると、左手に派手な居酒屋の看板を見つけた。
誰かが入店の交渉に向かう。
地下の居酒屋で、この大人数でも入れるという。
もうここでいいじゃないか、という事になった。
しかし俺は、看板に正月特別メニューと書いてあるのを見逃さなかった。

嫌な予感がした。

靴を脱いでビニール袋に入れて各自が持ち、座敷に上がり込むタイプの店だ。
ガラガラじゃないか。
こんな日に人がいないとは。

嫌な予感がした。

正月特別メニューと書いてある金ピカのメニューが各テーブルに置いてある。
品数限定で少々お高かった。
今のように飲み放題なんて無かった。

まずは最初の一杯、生ビールで乾杯。

 乾杯して気づいた。
一体何人いるのだろうか。
30から40人はいる。
明らかに、初め入店した人数より増えている。
見たことのない奴までまぎれこんでいる。
ヤバイ、最初に一人3000円を徴収しようと提案する。

1時間経過。

帰る人間と噂を聞きつけて来る人間が入れ混じっている。
携帯のない時代にどこで情報を得ているのか。

2時間経過。

人が減るどころか増えているではないか。
人が入れ替わり、何人いるのか分からない。
マネージャーが必死に金を集めている。

3時間経過。

帰る人間が出始め人数が少なくなってきた。

4時間経過。

8人程が残り打ち上げ終了。

お会計。

えっ!

俺は居酒屋でこんな金額を請求されたことはない。
53万円也。

集金済の金は半分くらい。
あとは残った人間が財布を空にして払った。
俺は8万円払った記憶がある。
階段を昇って店を出ると外はもう明るかった。

小銭を出し合ってタクシーで新宿ロフトまで行った。
ロフトの年越しパーティーは終わっていて人気が無かった。
店の前のベンチでビールを飲んだ。
もう有り金が無かった。

太陽が眩しいのどかな元旦の朝だった。


ーつづくー