初めての九州ツアー(大分市内編) ~1990年11月その5~
新型コロナのため家にいる時間が多くなった。
やることも無いので部屋の整理をしていると・・・
昔の手帳が出てきた。
1985年から2010年まで。
あの頃はスマホどころか、ガラケーも無い時代で、予定は手書きで手帳に書いていたのだ。
2010年以降はきっと携帯に予定を打ち込んだためにないのであろう。
さて、ちょっとだけ手帳のなかを覗いてみるか。
1990年、私は「P-MACHINE」と「伊太地山伝兵衛商会」を掛け持ちして活動する事になった。
1990年11月21日 移動
22日 大分着
23日 打ち合わせ
24日 大分ブリックブロック
25日 宮崎
26日 博多
27日 博多
28日 移動
29日 高円寺稲生座
伝兵衛商会の初めての九州ツアーだ。
ん?あああ思い出した。時を戻そう。
九州への車移動の疲れは、一日寝ただけでは取れなかった。
しかし、今日23日の昼にはラジオ番組の出演があるらしい。
翌日の大分のライブハウス「ブリックブロック」出演の宣伝であった。
眠い目を擦り、渋々起きた。
すごい良い天気だったのを覚えている。
朝食を済ませると大分合同新聞に挨拶に行った。
新聞にも、ライブの告知を載せてもらっていたのだ。
合同新聞のロビーで伝兵衛さんの友人に会った後、大分のラジオ放送局に行った。
エフエム大分だったと思う.。
全て、伝兵衛さんの出身高、大分舞鶴高校の同級生、あるいは銀行員時代の「つて」である。
あの人は、口が上手く調子のいい「元銀行員」の典型だった。
それでいて、憎めない漢なのだ。
ガハハと笑って全てを誤魔化す。
皆、そんな彼に騙されていく。
そして、いつの間にか、応援者になってしまうのである。
放送局に着くと、各自楽器を持って中に入った。
明日の大分ブリックブロックと明後日の宮崎のライブの宣伝を兼ねて、インタビューを受けてから、1曲演奏するらしい。
他のメンバーは、部屋の中だったのだが、俺だけはラジオ局の廊下でヘッドフォンをして、ハイハットとスネアドラムだけで演奏した。
演奏した曲は「ウエスが聴こえる」だったと思う。
伝兵衛さんだけは、インタビューがあり「ライブを見に来てね」みたいな事を言っていた。
ラジオ収録が終わった後、伝兵衛さんが「飯を食いに行く」と言い始めた。
もしかしたら、夕食だったのかもしれないが、まだ明るかった記憶があるので、遅いランチだったのだろう。
伝兵衛さんの同級生がレストランを開店したので、その店に行くとの事。
大分の中心地から少し車で走り、丘を登って行く。
護国神社の近くの坂の途中にある「パパスダイナー」と言う店に着いた。
丘の上にあるレストランからの眺めは絶景だった。
それにしても、天気が良かった。
こじんまりとした、オープンしたての店の奥の席に案内されて、シェフと奥様がテーブルまで挨拶に来てくれた。
そして、伝兵衛商会メンバー4人分のステーキをいただいた。
貧乏バンドマンには、贅沢過ぎて、無茶苦茶美味かった。
そう言えば、大分に着いてからは、コンビニ飯しか食べてなかったかな。
伝兵衛さんがオーナーシェフに、バンドで帰郷した事を自慢げに話をしていたのを覚えている。
俺は、もう一度、この店に豊後牛を食べに行きたいと、ずっと思っていた。
しかし、この後何度も大分に行ったが、再訪は叶わなかった。
この日は連泊している、大分駅前のグリーンホテルに戻って、ベースの吉見さんと部屋飲みしたかな。
翌日は、「ブリックブロック」でツアー初ライブである。
ーつづくー