毎週末新宿ロフトにいた ~1985年6月 その1~
新型コロナのため家にいる時間が多くなった。
やることも無いので部屋の整理をしていると・・・
昔の手帳が出てきた。
1985年から2010年まで。
あの頃はスマホどころか、ガラケーも無い時代で、予定は手書きで手帳に書いていたのだ。
2010年以降はきっと携帯に予定を打ち込んだためにないのであろう。
さて、ちょっとだけ手帳のなかを覗いてみるか。
1985年、私は大学を卒業、就職、それと同時に新宿でバンド活動をしていたのだ。
この頃は新宿ロフトの店員バンドPLMに参加していた。
1985年 6月8日 〇
6月9日 〇
毎週土日に練習している。
ん?あああ思い出した。時を戻そう。
手帳には、1985年6月以降は、ずっと毎週土日に赤い〇の印が書いてあった。
新宿ロフトでの練習の日のマークだ。
俺は、毎週末の朝6:00から、店員バンドPLMの練習を続けていた。
土日休みの、俺の都合に合わせてくれていた。
しかし、1985年の手帳には、バンドの事よりも仕事のメモが書かれる割合が多くなっていった。
当時、小滝橋通り沿いの地下1階にあった新宿ロフトの上には、信用金庫があった。
平日は、信用金庫の開店している9時から16時までは音が出せなかった。
しかし、土日は営業していないので出し放題だ。
俺の週末の生活はこんな具合だった。
土日の朝6:00から9:00まで練習をして、その後機材を倉庫にかたずける。
10:00になると、昼の部の出演バンドがやってくる。
店員のPLMのギタリストNの仕事が始まる。
俺はパイプ椅子を並べるのを手伝う。
昼の部のリハーサルを見る。
本番中に飯を食いに行く。
行くのはたいがい3軒隣の「さつき食堂」。
この食堂は今でも残っている。
よくビールを買ったその隣の「斉藤酒店」も健在だ。
昼の部が終わると、夜の部のバンドが入って来る。
夜の部のリハーサルを見る。
開場して、客が入ったらPLMのギタリストNの仕事は終わりだ。
それを待って、一緒に飲みに行くのである。
興味のあるバンドは、本番も見てから飲みに行く。
そして、最後は新宿ロフトに帰って来るのである。
こんな具合で毎週末を過ごしていた。
店にとっては、週末1人バイトが増えた様なものだ。
オーナーの平野悠さんも公認で、ライブは見放題だった。
新宿ロフトに週末出演したバンドはほとんど見たと言っていい。
人気の出てきたBOOWY、ハードロック系なら新生VOWWOWなどきりがない。
新宿Lで打ち上げをやるバンドの時は飲み会にも参加した。
俺はいつも新宿ロフトで飲んでいるので、自然と親しくなるのである。
打ち上げの差し入れで、1番人気のあったのはタコ焼きだった。
小滝橋通りを渡った先に、お爺さんとお婆さんの二人でやっていた小さなタコ焼き屋があった。
これが旨いのである。
3箱、4箱買って行っても、あっという間に無くなった。
時には追加の買い出しにも行かされた。
新宿ロフト出身のバンドは、絶対に1度は食べているはずだ。
この店は惜しまれつつも、数年後の区画整理でなくなってしまった。
本当に残念だった。
打ち上げでは、ボーカル、ギターはさっさと帰ってしまうが、最後まで残るのは、大体ベースかドラムだ。
VOWWOWのベースの佐野さんはこの頃坊主頭にしており、酔っ払うと坊主頭を触らせてくれた。
BOOWYも残るのはドラムの高橋まこっちゃんだった。
夜中になると、ARBのドラムのキースとか、アナーキーのギターのマリが加わる。
週末はパーティーだ。
本当に、毎週毎週飲みに行った。
大久保界隈では、行った事のない店はほぼ無かった。
学生の頃は随分PLMのギタリストNに奢ってもらった。
俺は、金を持ってなかった。
バイトで稼いだ金は、楽器に消えていた。
しかし、サラリーマンになった俺は、少し奢り返す事が出来る様になった。
ギタリストNは、俺と同じ位呑み助であった。
新宿Lの給料のほとんどを飲み代に使ってしまう奴だった。
2人とも酔っ払うので、大久保の「村さ来」は、暫く出入り禁止になっていた程だ。
飲み代を使い果たし、行く所がなくなる。
そして今日もまた、最後は新宿ロフトに戻って行くのであった。
ーつづくー